霧に包まれるのは、朝ばかりのことであろうか。むしろ朝、細く入り組み密集した街並みを覆い隠さんと横溢し、朝陽を返して幻想的な光景を作り上げるそれは、そうではないのだ。夜をより一層の黒、そのままではさらりとした冷たいばかりの宵闇を、どんよりと空から街に垂れ込め、粘り四肢に絡み付く重く湿った生きた漆黒に染め直すための夜霧が、腹一杯に光と希望を食らいつくして満足した後去り行く残滓なのである。
人を食い過ぎた王都は、その血管たる道をひしめく壁で圧迫し、内部に超過する人間、馬、そして行き倒れの死体とやり場のない糞便をその流れの中に放っては、それらの上げる声と臭いで埋め尽くしていた。
学び舎とて例に漏れずそんな混濁した流れに面して構えられ、世に知れた王都の名声とは裏腹、美しさより猥雑とした街並みに埋もれて細々その営みを続けるばかり。学び究められる内容も、海向こうの宿敵把里を出し抜こうと名声に心血を注ぐばかりである。
夜霧の去った後、光が流れ込んで渾然とした街に一縷の生気を吹き込んだものの、沈澱するような朝霧はまだ獰猛に人を食らう食指を伸ばすようだった。
王都は神の麾下にて加護と祝福を得ていながら、その内側には多くのアンチテーゼ―隠れ潜む魔、闇、神を光とするならばあるいはその影―を内包し、強烈なコントラストはグロテスクな共存をさえ織りなしている。
上に延びることを諦めたバベルは、疫病の神罰を受け、大火の制裁を下されながらも今なおその瀟洒さとは対極の―言ってしまうのであれば、〝不潔〟―姿を改めようとはしていなかった。
スラムではない。あくまでその細胞をなすのは文化と知識を蓄えた上流階級であり、血管を通うのは最下層民を押し流し隅に追いやる程の金と権力。昼にあってはその夜、物陰、暗がり、闇を恐れそれを忘れようとするほどの宝石と貴金属の輝きだった。
それでも、光を強くすればするほどに、影は色濃く姿を映すもの。
悪臭を漂わせる教会の裏手の集合墓所には、死者が夜な夜な墓穴を這い出しうろつく噂が絶えず、密集して住む家の足らない都にしてなお空き家となっている古い館には買い手が着かない理由があった。王都を見下ろす山からは毎晩人の絶叫びと狼の咆哮の混声合唱が響き、血液を一滴として残さぬ干からびた死体を警察が運び出す日も少なくはない。教会とは別に悪魔祓い師が必要とされ、魔女は悪とされながらも貴賤問わず誰もに頼られている。プロテスタントは錬金術をさほど強く迫害せず、故に混沌とした学問がこの街のあちこちにある上流階級のアマチュア科学者が営む私設アカデミーで究められ、全く妖しい事件はその産物との声も挙がっていた。
機械と奇怪が共存し、蒸気と狂気と霊気と電気とが渦を成して、生み出される熱気と障気が、この狭い王都を更に締め上げていた。
[sectionid:内在憑依]イド、というのが適切だろうか。
胸の中に穿たれた暗い穴の縁には常に指がかかっている。内側から何者かが手を伸ばしてそれを掴んでいるのだ。覗き込む勇気はないし、その必要もない。そいつは(悪霊は)まこと些末なことでイドを軽々と這い出してくる。他の多くの人は、そこに悪霊など住み着いていないし、いたとしても余程に水嵩が増さない限りそこから手を届かせることなどない。私のイドは底が浅い。住み着いている悪霊は、バケツで汲み上げずともちょっとでも水嵩が増せば垂直の壁を登って来て私の体をいよいよ自由に操作し、粗暴極まりない言動、整合性のない言葉と奇声を上げては、地面を這いずり回ったり辺りを跳ね回ったりもする。親しい人間の認識さえ失って傷つけてもその間は全くわからない。自分の体さえ傷つける奇行を取り押さえようとする人を撥ね除け、逆に殺しかけたこともある。そして嵩増した水をぶちまけて気が済めば再びイドに戻る。
私にはそいつをどうやっても御すことが出来なかった。
あれは、自分ではない。自分の中に巣喰う何か。悪霊。獣。別人格。
いわゆる、悪魔憑きと言う奴だった。
あ、ああ、
発現のタイミングは全くの不意、と言うわけではない。私自身には大体わかる。だが、わかるからと言ってどうにか出来るものではなかった。
終わってみれば。憑依の予感と、それが終わった後の強烈な倦怠感の間に横たわるだろう時間の記憶は、一度だって残っていたことがない。体が乗っ取られるその瞬間さえも覚えてはいないのだ。「来そう」そう思ったときにはいつも手遅れで、そうならないように生きるのも、どだい無理な話だった。
今度は何をやった。
直ぐにでも眠ってしまいたい、引きずり込むような倦怠感。頭が重い。水よりも重い何かどろっとした液体が、頭の中に溜まっている。脳味噌が溶けて代わりに頭蓋骨の容積を圧迫しているかのようにさえ思える。頭を少しでも動かせば、ぐわんぐわんと粘着質の液相が頭の中を揺れる。
怠く暗く揺れる視界に入ってきたのは、ひっくり返った机と椅子。折り重なってハリネズミのようになっていて、およそもとあった場所にはいない。紙と本、いくらかの衣類は散乱し、水とインクと少量の血は床に飛び散っていた。クラスメイトは教室から飛び出しており、悲鳴と呆れ声、怒声が入り混じっていた。窓ガラスは砕けているが破片は外側に散っている。
私の前に、大の大人の男―教師だ―が、腰を落としたまま後ずさり逃げる様を見せていた。鼻はひしゃげ、唇は切れている。どうも片方の腕は動かないらしく、肩に力が入っていない。紛れもなく、私から逃げようとしている。何かぬめりを感じて視線をやると、手の甲にべっとりと〝それ〟が付いていた。
教師との体格差は明らかで、背丈でも倍以上あり、彼は鍛えた筋肉を鎧のようにがっしりと纏っている。その男が後込みし逃げようとする私の体は、子供の中でも小柄で細い。人物像を見るに、この構図はまさにあべこべだ。
だが男は私の姿を見て、無様に千切れた唇を戦慄かせながら、その体躯に見合わぬ細い声で言った。
あ、あく、ま
私の手足も意識も何も、その先には千切れた糸が、絡み付いているようだった。
[sectionid:液相痛]私の家は、ぎりぎり王都の外郭に居を構えていた。近年生み出された活版印刷所で、文字版を並べてプレスする工員を勤める父は、殊更外面を気にする男だった。それが、私のような娘を持っては気が気ではないだろう。何せ自分の娘の記事が、書物になって津々浦々に出版される可能性さえあるのだ。
義母も義母で、ゴシップを気にかける人で、それが自分にとっていい話であるなら飛び跳ねて喜ぶだろうが所詮は中流の身、自分の身の回りがゴシップを飾ることなどそうそうなく、あるとするなら私の悪評が王都中を駆け回ることだろう事を考えると、顔を見たくもあるまいとは思う。
お前のせいで、何もかもめちゃくちゃだ!あいつは自殺する、皆からは村八分にされる、お前が生まれてから、俺の人生は、俺は!
父親が、私の胸ぐらを掴んで私の体を揺らす。振り回し、殴りつける。痛みは薄い。悪霊がイドに帰った直後は、全身の感覚はほとんどない。あるのはただ気怠さと、頭の中に溜まるどろどろの感覚だけ。一度収まるとしばらく出てこないのを知っている父親は、ここぞとばかりに私をぶった。
学校に私を引き取りにきた父親は、動こうとしない(動けない)私を物のようにロープで縛り付け、引きずるようにして帰ってきた。玄関先で、父親は早々に私を棒で叩き付ける。何度も何度も。倦怠感が酷く、糸が切れた人形みたいにくずおれ、引きずり上げて立たされても立ち上がれない私のその様を、反抗的な態度とみなしては、より激高して更に強くぶつ。義母は私のその様を見て見ぬ振りをして自室にこもっているようだ。
その中に悪魔が居るって言うなら吐き出して見ろ!
やめて。殴られるのはどうでもいい。ただ、そうやって体を揺さぶられると、頭の中の液体がびちゃびちゃいうから。気持ち悪い、頭が痛くなる。目の奥からこめかみの中、後頭部を掘り進んだもっと奥の方が、痛みの粘液にさらされて、がんがん響くように痛い。どんどん酷くなる。それはすぐに激越化して、割れるような、ハンマーで頭を内側から砕いていくような痛みに変わる。ハンマーの正体は頭の中に溜まった液体。揺れてたぷんと振られた方向へ、私の頭蓋骨は何度も打ち砕かれた。
痛みの苛烈さに目が見えなくなり、意識が飛びかける。耳鳴りと吐き気。
やめ、て
それでも、きっと私がしてしまったことに比べれば、そのたびにこんな痛みに苛まれることくらい、生ぬるいのだ。
でもせめて、この頭の中に滲んでくる液体さえなければ。
この粘液。
きっとこれは血液だ。頭の中を満たしているようではあるけど、実際は頭の中を縦横無尽に行き交う血管が、悪い血液に圧迫されて悲鳴を上げているんだ。揺られた方に血液が寄り、だから液体が満たしたように痛みが揺れる。
この体に行き交う血液は、きっと何かに汚染されている。悪霊が染み入っているのだ。
だからこの穢れた血液を、私は吐き出さなければいけなかった。
[sectionid:生命体=精+命+体]肉体と精神は分離可能であり、命と肉体、あるいは命と精神も分離可能だ。命とは肉体と精神を縫いつける糸であり、お互いを絡め合う為の網である。肉体は物質的観点での生命体を示し、精神は思考や記憶の演算・機能的な側面を指すが、精神が出力した様々の結果、蓄積、消去は命によって肉体と関連づけられ、初めて意味を成す。精神(それは魂と呼んでもいい)は、脳の中央、魂が座し受肉した存在となる部位で有体化し、血液によって肉体の形を指示しながら全身を巡る。
[sectionid:流体自己、微小自殺]話し合いが始まってから、もう随分と時間が経った。話し合いとは、言うべきだろうか。相手の声はよく通る冷えた金属と澄んだ水みたいな声を隠そうとしていないが、義母の声は時折トーンダウンしてここからでは聞こえなくなることもしばしば。別に義母が責められているわけではないようだが、後ろめたさを感じているような、煙草の煙と押入れの隅みたいな声で来訪者との会話を続けている。時折私の名前が聞こえてくるのだから、私に無関係な話ではないだろう。むしろ、話題の中心は私のようであって、こうして部屋の中で何やら裁判されている感覚が、気が気じゃなかった。
体が悪霊の手に掴まれて、凄まじい重圧を感じていた。かつて人形遊びでそれを握って掌中に置いたように。こういう時は決まって、悪霊の手の指先は私の手足を摘み上げ、私はその思惑通りに動かされてしまう。
今は私の体が自分の制御を離れている訳ではないのだが、私の体が私の体を動かしているというよりも、私の体を無理やりに動かさせるように私の体を掴み上げる悪霊の手を私が操作しているようなどこか隔たった感覚、もっと言うとその悪霊の手を操作する私の意思そのものも何者かに操作されているような感覚が、こういう時には現れるのだ。こういう時、とは、不安感、重圧、倦怠、罪悪感、ネガティブ、無力感、無知、焦燥、つまりあらゆる「自分の小ささを自覚する感覚」を抑えきれなくなった時のことである。
悪霊が、私の体を動かす。私がそうしたいからでもある。私は化粧台の抽斗を開け、よく手入れされた針を取り出した。注射するときに使うやつ。それから、花も差さずにひっくり返したままになっている透明ガラスで広口な花瓶を引き寄せる。昔は注射器を使っていたけれど、噴水する様がすっかり気に入ってしまって使うのをやめた。今は、針だけだ。
もう悪霊が私を操るのを、止めることができない。それに私の体も、早く早くと叫び声を上げてもいた。
髪を結うリボンを一本、それ専用にしている。髪ではなくて、腕を縛るのだ。二の腕の中ほど、少し肘に寄ったところをきつく締め上げると、腕に青緑の筋が浮かんでくる。私のそれは随分と細いのでなかなかヒットさせられなかったけれど、今は悪霊が随分と上手にやってくれるようになった。
肘を花瓶の口の上に寄せてから、その裏あたりに現れたその青い筋の中央に、針を穿刺する。ヒット。青い筋から、赤い流れが噴出して、花瓶の中に溜まっていく。安心する。気持ちいい。落ち着く。救われる。この赤い色が噴出している様を見ているのが、ガラスの壁に当たって赤い膜状になって流れていく姿が、瓶の中に滔々と溜まっていくのが、あらゆる「自分の小ささ」を忘れさせて私を救ってくれるのだ。穢れた血液、悪霊の巣喰う呪われた体液を、排出したかった。
針を刺している方の手を握ったり閉じたりすると、噴出す血液の勢いが変わる。流れが滞ってきたらそうして押し出すようにすると長く楽しめるのだ。悪霊はそれをよく知っている。私に長くその中毒性のある安心感を味わわせてくれて、だから私は悪霊との共存をもう諦観を以て拒否するつもりはなく、私を操る何か大きな存在としての悪霊を、私は私の中に受け入れていた。私の手でどうにか出来る存在じゃない。
花瓶に溜まった血液が、握りこぶし程度の嵩になったところで、部屋の扉が開かれた。
ああ、いいところなのに。気持ちいいところなのに。なんなの?そっちの部屋で勝手に私の話でもしていればいいじゃない。どうせろくでもない話。私に聞こえないところで存分に悪口でも愚痴でも何でも言い合えばいいじゃない。ほっといて。
あんた、また……!
義母は扉を開けて見えた私の様子を認めた途端飛び込んできて、腕の針を抜いた。痛い。そうやって無造作に抜く方が危険だって知らないのか。悪霊と私の意思が一致して義母の目を睨み付けると、義母は目を逸らして花瓶に溜まった「穢れた私」を慌てて捨てに行った。まさに汚物を捨てるように。
それを追おうとも非難しようとも、もう思わなくなっていた。だって、異常なのは、私なんだから。
義母が部屋を出た後に残されたのは、私と悪霊と、もう一人、セミロングの金髪と青い瞳、真っ白な肌の、まるで人形みたいな女だった。その人は私のことを凍った鉄みたいな目で見ている。白い肌と青い目に、唇の赤さが何とも言えぬ妖しさで鮮やいでいた。
不気味。でも、目が離せない。さっきから、義母と話していた人だろうか。
無造作に針を針を引き抜かれて痛み、止血もしていない傷口からたらたらと血の筋が流れたまま立っている私の傍に来て、腕を取り上げる。傷口に視線を落としたままその赤い唇を、そうか、それはそのためにあるものだったのだ、と刹那忘れてしまうほどの妖艶さを湛えてそれを動かし、言葉を紡いだ。
ふうん、鮭かあ
私は思わずその女の人を見上げた。
気持ちいよね、鮭るの。平均何ccイくの?
は?……さっきの花瓶の半分くらい
そんな質問をされたのは生まれて初めてだった。答えるのも初めてで、人に伝える必要もなかったから量なんて量ったこともない。
それより何なんだこの女は。
さっきのだと、二〇〇ってトコね。それくらいでやめといた方がいいわよ。目的は量を増やすことじゃないでしょう?あなた体小さいし、あんまり鮭ったら危ないわ
あんたに関係ないでしょう?なんなのよいきなり。
こいつも、医者か何かか。それとも占い師?掴まれた腕を振り払おうとしたが、きつく握られていてそれはできなかった。何のつもりよ、と私よりも背の高いこの女を睨み付ける。ああ、余りこうして負荷をかけると、出てくる。
些細なことで暴発し、ブレーキの切かなくなるあの感情。いつもは陰鬱としていながら、火花一つで炸薬の如くそれは爆ぜ、理性は掠れて激情だけで行動する。悪霊。獣霊。呼び方は色々だ。
もう、放っておいて欲しい。どうせ私以外に私の問題を解決できる奴なんていないのだ。私が独力でその問題を解決できるようになるそれまでは、私は悪霊と一生きていくって諦めたのだ。これは悪霊の怒り。動物霊の威嚇。私ではどうすることだって出来ない。だから、放っておいて。
だが女は予想だにしないことを口にした。
もう、関係なくないのよ。あなたは私が買い取った。だから、私のものなの。育ての母親と実の父親は、あなたを随分と安く、私に売ってくれたわ。疎まれていたのね?こんなことを、するから。その悪魔憑きのせいでしょう?
もう一度私の腕をとって、注射痕が残るそこを見る女。
それに、お義母さんよりは、私の方が、あなたを〝理解してあげられる〟と思うわ。
私の目に入ってきたのは、私の腕をつかんだこの女の腕。
アームウォーマー。青と白を基調にした服装に、黒いアームウォーマーはなんだか不似合だ。でも、その不似合なものをチョイスしてでも身に着ける理由に、私には一つ、心当たりがあった。きっと〝リストバンドやリボンでは足らない〟のだろう。
ねえ、それ、隠し?
想像に任せるわ、と呟いて彼女はアームウォーマーの上下の裾を伸ばして、隠すように整える。
ちらりと見えたその下の肌が、彼女の真っ白な肌と地続きとは思えないほど赤かったように見えたが、すぐに隠れてしまってしっかり確認はできなかった。でも、きっと、間違いない。
目の前の女の、氷みたいな顔、普段は柔らかいのに時折尖ると剃刀みたいな目。
そうか、と、思った。
私の中の悪霊も、イドの中から賛同していた。
あたしを買った?だったらこのクソくだらない家から、さっさと連れ出してよ
女は、少し、笑った。
それは冷たいのに、何処か柔らかかった。
[sectionid:生命体-命=精+体]こうした物質的肉体、霊的存在根の中心にあって、個的要素をなすのではなくその間欠を充溢させるものが智であるが、それは単なる糊ではなく、実際にアッシャーがどのような形質を発現するかについてを実質的に決定付けるものである。というのは、アツィルトはそのままでは明確な形成指向性を持たず、ダアトによって方向を指示されねば原形質より進むことが出来ないので、ダアトが無形たる光の束をしてアッシャーを具現化させるのである。
[sectionid:人の形弄びし少女]私ね、妖怪なのよ
私を買い付けたのだという女―アリス、と名乗っていた―は、突拍子もなくそんなことを言った。
は?
魔法使いって奴
妖怪だの、魔法使いだの。千年生きてから言いなさいよ
そうね。私はまだここに来て五〇〇年しか経っていないものね
……
よくわからない女だ。
人をひとり買い叩いたのだ、余程の財力があり、厄介事を揉み消す程の力がある上流階級の女に違いない。だが、私より幾つか歳が上か、と言う程度の身で、それほどの振る舞いが許された貴族の名もまた、聞いたことがない。
女の姿は王都での流行に流されたものではなかった。かといって時代遅れなのではなく、全く別の価値観を持ったコーディネイト。コルセットでのライン調整は欠かさないが、王都での流行のそれほど締め上げていない。バッスルを用いず色合いはパステルの青と白、エプロンドレスをファッショナブルに改変したようなスタイルをフリルとメッシュで修飾している。ブロンドヘアに重ねられるのはボンネットではなくカチューシャ、そこに落とされた赤色はコルセットに差したさりげない赤と靴のワンポイント、何より艶めかしささえ感じる唇の紅との共通点で、全身を通す統一感を出している。胸元を全く広げないドレスは、華やかさに足らないようにも見えるが、しかしその色合いや飾りの盛り付けには、成熟した女性が逆にいたいけを残す〝ロリータ〟などと呼ばれる倒錯をさえ感じる。
人形、そう評するのが彼女の装いを形容するには最も適切かも知れない。
その服装はおおよそ人間がすると言うよりは、お伽噺、あるいは夢の国から飛び出した人物のものを、現代風にアレンジしたエキゾチズムとロマンを纏っていた。加えてサファイアを埋め込んだような真っ青な瞳と、血管の透けそうな白皙。私達と同じもので出来ているようには思えなかった。
こうした頓狂な格好を、しかもシルクや上質な綿、皮革と宝石によって成し、それを垢抜いて着こなすには、相当の財と嗜みを要する筈だ。それでいて、こうまで変質な服を好む立場というのは難儀なもので、余程良好な人間関係を築くか、またはその真逆である必要がある。どちらにおいても社会的には相当にわがままを要し、故にこの女の止ん事無き様を示していた。
アリス、などという童話じみたファーストネームで通った上流貴族は聞いたことがない。少なくとも私のような立場が読める紙面に見かけたことはない。
だとすると名前を隠す必要があるかだ。それに加えてこうした変わり者な出で立ちと、こんな辺鄙なところ(もう随分と森を奥へと進んでいる)に居を構える事情。おそらく、何かとても大きな存在が、表沙汰に出来ずに放し飼いにしている女、あるいはその娘。それ以外にこのアリスという女を説明する方法はないように見えた。
あとね、吸血鬼でもある
どっかの貴族の私生児、じゃあなくって?
そうね。そうだった時期もあった
……ほんとうに?
かもしれないわね
人をバカにしているのだろうか。息を飲みかけた私は、脱力する。
それはそれとして、吸血鬼と言えば、今王都を騒がせるゴシップの一つだ。美女の生き血を吸う、家畜を干からびさせる、殺しても殺しきれない化け物で、無数のコウモリに身を窶す、と、かつては口伝だったそれは今は紙に乗ってより広く現実味を帯びて広まっていた。だが余りにオカルトで、信じられていないわけではないが、機械と電気が台頭し始めた昨今にあって、〝それは私の隣にある〟とは誰も思わなくなっているのも事実だった。
彼女の言っている冗談の意味は終始分からなかったが、私は彼女の家に通されてすぐ、それを痛感―あるいは冗談などではないかも知れないと―することとなるのを、まだ察してさえいなかった。
こんな森の中にあって意外なほどに格調の高い佇まい。その白い石造りの壁には確かな石匠の手によるものだろう華やかな彫刻が施されている。屋根は美しい曲線と整然とした平面で構成され、目を見張る赤で塗り込められていた。柵のような物はないが、低い垣根としつらえられたバラ園、ハーブが競演する茂み。計画され切った整然たる乱雑さに囲われた門の傍には、ここに徒歩で至る過程で付くであろう木の葉や泥、あるいは出立したのがこことは対照的に有象無象がひしめく王都であればまず間違いなくこびり付く〝あれ〟を靴からこそぎ落とすためのブーツスクレイパーが備わっている。魔法の森と呼ばれる人の寄りつかない森の中でなおその姿に、偉容という言葉はそぐわないものの、纏う存在感は確かなものだった。
観音開きにガーゴイルの口を備えた扉、磨かれた石床の玄関を抜けると、左右に舞うように上る階段は二階の廊下とバルコニーへかいなを伸ばしている。内装も、高貴さを漂わせながらも嫌みにならない落ち着きを備えていた。
森の奥にあるとはいえこれほど趣味のいい調度は、やはり私を買い付けこんなかぶいた恰好をするに足る上流階級の身分と分別、知識と文化を証すものに違いない。私のような生まれには、雲の上の環境だった。あの女の体には、高貴な血が流れているに違いない。妖怪であると言う彼女の言は、そういうジョークだったに違いないと、そう思っていた。
倫敦には貴族が多く住まう。貴族の中には他の同族を何らか出し抜きゴシップを飾ることに腐心する輩もなお多い。中には大層〝かぶいた〟奴も―こうして敢え倫敦を離れて鄙びたところに屋敷を構えるのは、海峡の向こうの王家が狩猟小屋を豪奢な宮殿に造営したのに準えてのことだろうか―少なからずいるのだろう。私は女に導かれて玄関を直進し、右へ折れた先の扉を開けた先へと、彼女に続いた。
そして私は思い知ったのだ。
その部屋の様相を、異様と言わずに何と言えばいいのか、私には適切な言葉が見つからなかった。真暗く奥の見えぬその部屋は、僅かに今までとは違う妙な匂いの空気を吐き出したのだ。私は訝しく思いながらも立ち止まるわけにも行かず、つかつかと進む女の後を追う。
アリスが部屋を少し進み、私が部屋に足を踏み入れる他タイミングで小さく呪文を唱えると、部屋の中に幾つか並んだ燭台に、前触れもなく青白い炎が、走るように並んで灯った。
その蝋燭の明かりは部屋を照らすには十分なのに、陰の黒さが依然存在を主張している。明るいと言っても問題がない部屋にあってしかし光は弱々しげ。蝋燭には似つかわしくない青白い光は、どこか寒々としているのだ。光が、ひいては視界が存在が、コントラストを低く保っている。何処かぼんやりと陰った印象を受けるその部屋には、しかしその光以上の「異常」が充満していた。
科学の出現により、多くの魔術はペテンへと歩み寄った。だが、限られた魔術は、それと相対して、より神秘性と魔性を増すことになったのだ。この女貴族が行使せしめた魔術は、間違いなく「限られた方」に違いない。
その部屋の光景を目にした私は、言葉を失い、息を呑んだ。
こ、れ
人間と見紛うほど精巧に出来た人形が、瞬きの一つもせず、半開きの口を動かすこともなく、虚ろなガラスの眼球を空中の何処へも焦点を合わせず、ぼんやりとこちらへ視線を投げていた。
男、女、子供、着衣脱衣も関わらず、立っている者もいれば椅子に腰掛けて肩を落とした者、死んだように横たわりぐったりとした背中を晒している者もある。椅子に座り天井を仰ぐように背もたれにのけぞり、左右の腕を外側に放り出したまま動かないものは、口を開けっぱなしにして細めた瞼の隙間からこちらを見返したように感じる。ガラスのケースに収められて立ったまま、力なく肩を落としてやはりうつろに透き通る瞳を見開いたまま固まっていた。おそらくアリスが座り作業するためだろう机と椅子のセット、その椅子の横で立って口を開き上を向いたような目玉のままの人形もある。
五体満足の者達ばかりではない。腕がない者、上半身しかない者。あるいは五体の「いずれか」だけの場合もあった。机の上に置かれた左腕の側には、目玉。幾本かの歯が散らばり、視線をずらすとそれを据えるのだろう骨+肉で出来た顎。僅かに湾曲した半透明の平板は爪だろうか。
思わず後ずさり背中に当たった扉はいつの間にか閉じられていて、左右を見ると同様に物言わぬ人形。その部品。
いずれも、主の―この女の―帰りを待っていたかのように、僅かに色彩を失った光の中で、瞳を、あるいは耳を鼻を肌を、微動だにせぬままに傾けているようだった。
生きていないのに、生きているようにしか見えない。だがその佇まい自体は、おおよそ人間がするようなものではない。だからかろうじて人形だと思うのだが、さて、これら全てが服を着て綺麗に座り整列していたなら、人形だと思えたであろうか。
ごめんなさいね、散らかっていて
見せたい部屋はこっちなの。
そう付け足して、拍子抜けとさえ思う素っ気無い声でちらりと私を振り返り、女はまたすぐに明るくも暗いその部屋を奥へ進んで行く。
女の平静さが、ここが彼女の自室であることを差し引いても信じられない。私は相づちさえ打てなかった。立ち竦み、立ち眩み。いや、視界が歪んで渦を巻き始めた。吐き気。悪寒と、そしてそれは、恐怖。
いずれも本物の人間にしか見えないのだ。今にも動き出しそうな、生身の人間の、形をした何か。「人形」とは、これほどに冒涜的なものだったのか。人の形をした人ではないものとは、これほどにも人間の尊厳を疑わせしめるものものだったのか。
命を模倣することの悪ではない。人の形を弄ぶことの背徳ではない。目の前にいくつもある人形、「それに、命が宿っていないことが」、邪悪なことのように思えた。
人形達は、それほどに精巧で、同時に精巧過ぎない自然な歪ささえ備えていたのだ。
あんまり気にしなくていいわよ。踏んづけて思い切り体重をかけたりしなければ、蹴るくらい平気だから
え、あ
床にある奴はあんまり巧く行ってない奴だし、と付け足す。
自分の脚で、この人形の群を抜けてあの扉の前迄?
無生命人間達は、目の前を、横を、あるいは頭上を行く私に向けて、焦点のあわない視線を投げかけてくる。無表情のまま私の方を向いて、虚ろにその動きを追ってきている。命を持たない人の形が、本来〝そこ〟にあるべきものを求めて、動かぬ体を、形無き意識を〝それ〟の通りに真似ようとしながら、私の中にある赤いものを求めているようだ。感情のない人の形、命を持たない人の形、意識を知らない人の形、魂の宿らない人の形。血の通わない人の形。それをイキモノの枠にあてはめて考えるなら、「うらめしい」「うらやましい」「いきたい」「ほしい」に相違なかった。動くことさえなく、意識さえない人形は、それらが宿っていてなお今はただそれを使わないだけなのだと、無生命人間達は、私が気を抜いた瞬間に、望む〝それ〟を私から奪うために立ち上がり、私に多い被さり、牙を爪を立てて私の体を行き交う命の証したる液体を貪ってその願望を満たさんと虎視眈々とその機会を窺っているのではないか。
―ほら、今あの人形の瞳が、私を見て動かなかったか―無機質な筈のその目は、まるで涙の膜を貼ったように瑞々しく思える。これが、ガラスの出せる質感だろうか。その奥に埋め込まれた光彩の蓋、瞳孔の筋は、私にピントを合わせるように蠢いていやしないか。
―ほら、今あの人形の指先が、私を求めて動かなかったか―粘土、あるいは布で出来ている筈のその手は、不自然に一様な形、つまり何かを引きずり寄せようと指を伸ばした表情で固まり、生々しさは恨みの言葉を投げるかのよう。指先、各関節から指の股、肘や肩も含めて、その手は私の中にあるものを引き寄せるために伸びようとしていまいか。
―ほら、今あの人形の肩が、呼吸を始めて動かなかったか―生きている筈のない人形にも係わらず、いつ呼吸を始めてもおかしくないほど、口も鼻も作り込まれてその穴は最奥まで届いているように見える。腹も、肩も、呼吸に上下する筈はないのに、今、まるで獲物を捕らえる瞬発を発揮する前の生き物のように、空気を取り込んだ胸が膨らんだように膨らみはしなかったか。
―ほら、今あの人形の唇が、何かを言おうと動かなかったか―ただの赤い染料で色付けられた唇は形を変えることなどあり得ないはずなのに、その赤はまるで何者かの血液を塗ったように赤く濡れ、その端から熱い吐息が漏れ出ているようではないか。つくりものの唇にしては艶めかしさに過ぎやしないか。私へ恨み言を言うために唇をゆっくりと上下しなかったか。
この無生物人間を、視界に入れることさえ恐ろしい。人の形を弄ぶ背徳、命への冒涜、形という呪の再現は今。
足の踏み場自体はあるし精々5メートル程度しかないその直線距離を、私は抜けるのに目を瞑り、息を止め、幾つか何か柔らかいものを蹴っ飛ばしてやっと切り抜けたのだった。
女はその様子を見て初めて私が「怖がっている」ことに気付いたようだ。
あれ、キツかったか。じゃあこっちの部屋は通らない方が
アリスは私を制止したが、目を瞑って勢いを付けてそこまで来てしまった私は、ごく自然に目を開いてしまった。
あちゃ
えっ?
さっきのような乱雑さはなかった。同じように冷たく沈んだ空気と静かな薄暗さに満たされていたものの、そこはきちんと整頓されていた。背丈の三倍ほどある天井迄届く棚は壁一面を覆うのと他にその手前にパーティションのように聳えており、その棚には何かずらりと並んだガラス容器。透明な液体が張られている。その中に沈む何か白色をした綿のようなものは、半透明とは言わないが端の方は光を透いていて、網の目の細かな白い筋が見えた。
もう一方は黄色がかった白。円筒形のゴムのようなもの。円筒の上部は少し切り開かれて内側が見えていたが、細かく波打った襞がびっしりと這い回っている。
あの半球型の物は何だろう。やはり白く、先の円筒形の内側とは少し違うが、表面は波打つ溝が襞を成していてとても柔らかそうだった。
あの頭の痛みを思い出す。痛いのではない、その痛みの記憶が想像上に再生された。なんだろう、あの白い半球は私の「頭に響く」。
あれ、平気そうね?
……何これ。あっちの人形はわかるけど、この並んでるの、何?
白い半球のひとつが私の脳裏に何かを訴えかけるではあったが、それでも私にはその液体に浸されて並べられたものが何なのかわからなかった。少なくとも日常生活をしていて見る物ではない。その白の様は、肌の色にも見えなくもないが、さっきのおぞましい無生命人間に比べれば何も怖くはない。
それでもやはり、独りでここを通り抜けるのには相当の勇気が必要そうだった。
明かりがあるとはいえ迷路のようにパ-ティションされた空間は、光の届かない曲がり角をいくつも作っている。ガラスと透明な液体が構成する壁はもちろん光を通しはするが、光がもたらす安心感はそのガラスと液体、あるいはそこに沈む何かよくわからないものに漉しとられて、ここまで届いていない。
ああ、そうか。うん、見たことないんじゃしようがないわよね
え、ええ?
その部屋には二つ扉があり、アリスはそれ以上は何も言わず、その内片方の部屋へ私を招いた。
開いてる部屋がここしかないの
通された部屋が、今までの雰囲気とは余りにかけ離れた様子だったため、私は再び棒立ちになって面食らってしまった。
ここがあなたの部屋よ。
え、あれ?
私は通された部屋と、それまでに通ってきた部屋を見比べてしまう。
部屋は、少女趣味が世界を作るとこうなるだろうと言う、馬鹿げたほど甘ったるい空間。子供向けの絵本の挿し絵をゴシック風に仕立てればこうなるだろうか。色合いはケーキや砂糖菓子を思わせるビビッド、あるいはパステル。モチーフは諷刺画のようでもあるが、それよりももっとマスコット。兎、猫の他に、トランプのスートを擬人化した人形が置いてある。だが先ほどまでのような見ては恐怖する人形ではない。愛らしい、愛くるしい。この人形と先ほどまでの物は、住んでいる世界を異とするかのようだ。この「世界観」を私は何というのか知らないが、この女の空間の埋め方は統一的で、そこには確かに何らかのコンセプトがあるようだ。
同時に、奇異すぎる彼女の出で立ちが、〝この世界〟から飛び出したものだとするなら、酷く合点が行くものでもあった。
これ、あんたがコーディネイトしたの?
そうだけど
この人形も!?
兎や猫ではなく、女の子の形をした人形もあった。金髪で、フェルトと樹脂、いくらかの藁で出来ているだろうそれは、子猫程度の大きさで私の腕の中にすっぽりと収まる大きさだ。生々しさや精巧さは排除して、子供受けしそうなかわいらしさだけを詰め込んだような人形は、アリスと同じように青と白をベースにし、リボンをわんさかしつらえたワンピースを着ていた。
え、ええ、そうだけど
シャンハーイ!
しゃ、しゃべったあああああああああ
しゃべらせたの私だけどね
私が人形の脇を掴んで、子供をたかいたかいするみたいに持ち上げると、人形は手足をばたつかせた。
ホウラーイ!
う、うごいたあああああああああ
動かしたの私だけどね
さっきの無生命人間が動いたりしゃべったりしたら怖い(もしくは人形だと思わない)だろうが、これは。
カッ、カワイイ!コレカワイイ!コノヘヤモチョウカワイイ!
よくわからない人形の真似しなくていいわよ
気に入って貰えて何よりだわ、と加えてからアリスは、私が抱きしめている小さな人形にそっくりな、でも髪型や服が微妙に違う人形を、たくさん呼び集めた。数は10を優に超えている。
この子達は私と感覚共有中だから、何かあったらこの子達のどれかに呼びかけてちょうだい。
感覚共有って?
この子達の見たもの聞いたものは、全て私の見たもの聞いたものになる。
は?
視界や聴覚が、複数あるって言うの?
またまた
今日は水玉ぱんつなのね
いっ!?
慌ててスカートを抑える。そして足元を見ると、人形が一体、スカートの中を覗ける位置に立っていた。
わ、わかったわ。私は日常的に、このきれいな魔法使いさんに監視されるのね
部屋にある人形は感覚共有していない。神に誓うわ。
妖怪が、神にねえ
魔法使い、そうね、今風に言えば〝あるけみすと〟ってところになるのかしら。私達はあくまでも知識を重視するわ。その中では狭量すぎぬ見識と、過大すぎぬ信仰は、必須なの。誓いの担保として、意味があるものだとは思ってるわ。
まったくそれならいいのだけれど。
それにしたって、私は奴隷のごとく売買されてここにいるわけだ。労働奴隷にも確かに人権の保障はあるが、これほどに配慮されるとは思っていなかった。
存外にいい生活が出来るのかも、と、思ってしまった。
[sectionid:魂三元論]形而上の半有体物質として定義され脳に座す魂は、生体機能を保つ最下位のレイヤーとしての機能的魂、動体としての主体性を形作る運動的魂、そして認識と高度な知能を培う精神的魂の三層から成る。
機能的魂は客体に対して生命を維持するに必要な機能的側面を規定し、脳の最奥に小さくその座を持つ。運動的魂はそれを受けて必要な形態を規定し、機能的魂を抱く脳質を包み込む中層に宿る。そして精神的魂は神の分身、ミクロの宇宙である人間にのみ備わり、感情、自意識、認識、芸術性、神への帰属心、複雑な知性を実現するが、これは脳の最外皮に薄い膜として存在し、少ない質量に対して高濃度の精神的魂を宿す。脳の皺は日々高まり続ける人間の精神性を支えるべく、この皮質の質量を増すための構造とされる。
生命体とは血液によって魂を通わせる有機体であるが、命にとって魂は必須項目ではない。精神的魂を持つ命が人間であり、運動的魂までしか持たぬ命が動物であり、機能的魂しか持たぬ命が植物である。
そして、魂を持たぬ命も存在しうるのである。魂を持たぬ命とは、則ち、機械、人形、人の形に見える岩、いきものの呪をかけられた無機物などがこれに該当する。
[sectionid:幽霊]アリスにあてがわれた部屋は、王国で極上とは言わないまでも私が今まで生活した経験の中では間違いなく極上だった。ベッドも調度品も高級に違いない。彼女独特の世界観に彩られた内装はむしろ倫敦のどの貴族の家を回っても目にかかることはあるまい。この美を醜悪というか独創的というかで評価は分かれようが、少なくとも私はいい気分だった。アリス自身の個室―あの無生命人間のひしめいた空間―を見たときとは比較にならない。
この人形が、あの人形と同じ作者とはねえ
パールアイボリーとパステルブルー、アクセントにはバーントシェンナとクリムゾンレッド。布という布にはぱつんという切れ目は存在せず、まるで小口を見せぬ事が全世界共通の礼儀であるかのように、全てにはフリルがしつらえられている。造型のほとんどは膨らみと流れ落ちる曲線で描かれており、兎、猫、時計やケーキ、トランプと言った統一感のないモチーフが一つの世界観―メルヘン、と称するべきか―の上に整列していた。
この部屋の人形には監視機能はないと言っていた。ほんとかどうかはわからないが、信じるしかないだろうし、そこまで疑うのもくたびれてしまう。
ベッドに横たわると、過剰なまでに空気を取り込んだ布団に抱かれて体が水の中に沈むみたいに気持ちがいい。
綿の海の中から天井に向けて、掲げるように手を伸ばす。その手は確かに私のものだ。付け根から爪先まで、一部として残すところなく、私のものだ。
だが。だが何故、手が動くのだろうか。私は私が動いてほしいと思うだけで私の手を動かすことができる。勿論それを巧く出来ない人もいるが、基本的に多くの人はそれが出来る。私の手は何者が動かしているのだろう。私は動けと命じているだけなのに、肩、腕、手首、指の先まで張り巡らされた筋肉が、私にはその仕組みが分からない。筋肉の筋がどこをどう通って何に至り、それがどう動くことでどう変わるのか、私の体なのに私は把握していない。なのに概ね思い通りに動かすことが出来るのだ。
仕組みを知らないのは私だけなのではないのか。私が動けと念じたとき、それを読み取り、それを実際に動かす、私の肉体を詳細に知り尽くした何か別者が、傍に立っているのではないのか。
私はそれが、暗くじめじめした、深くて底の知れないイドの中にいるような気がしていた。あの中にいる何か私ではどうにもできない存在は、私の肉体を私以上に知り尽くし、本来なら私の思考を読んで肉体を操作するだけの幽霊であるはずが、自意識を持って私の体を操作しようとしているのではないか。
そういった考えが湧いたとき、私は昔を思い出す。人形を使って、ごっこあそびをしていた幼い日のことだ。
―あの人形は、私ではないのか―
ああして横たわり、座り、物言わぬ姿となって、聖者のそれを恨めしんで求める、人の形をしながら人ではないもの。
人形に対して恐怖心を、私は昔から持っていた。あの部屋の光景は、それをまるで体の中に埋まったままの鉛玉を、麻酔も使わず焼けた火箸によって抉り掘って取り出そうとするように、傷ましく思い出させたのだ。
小さな頃、人形が主体の彼我逆転を求めて膨らみ続ける妄想を、私は捨てられないでいた。それは人形への羨望であったが、同時にいつか私が人形になり、呼吸も意識も命も失うのではないかという恐れでもあった。人形が私を縊り、血を抜いて喰い、そのガワを操って、人形遊びを始めるのではないかという、恐怖。自分が殺されることもそうだが、自分ではない存在が自分を騙って(もちろん人形遊びとおままごとではそれが当然であるにも拘わらず)自分にすっかり成り代わり、命を持たない偽物が、本物の私、生き物と同じになることが、怖くて仕方がなかった。
私は、〝とりかえ〟を二度も経験してきている。そして今回もまたあの女妖怪に買い付けられ、私は私という存在を証明する客観的事実を持たない、ふわふわした、あの王都に未練がましく漂う霧のような曖昧な存在なのだと知っている。
私は、誰だ。
誰かが、私ではないのか。
部屋にひしめく生々しいほどの人形を感じて、幼い恐怖感が、その時の大きさを保ったまま、襲いかかってきたのだ。
自身の身体機能についての自律性欠乏感、心身同一性の懐疑、自己同一性も稀薄だ。
どこかにいる、私ではない私。私が遊んでいた人形。あるいは。その逆であったとしても。それは、影と光、もしくは聖者と幽霊のようなものだ。
人形とは、生きた人間の、幽霊なのだろう。
私は、あの日遊んだ人形を、どこへやっただろうか。
[sectionid:防衛瀉血]人の近寄らぬ森の中に、こんな洒落た家があるなんてことも驚きだったが、その中がああも異様な空間、そしてあんなに可愛らしい部屋で出来ているとは。何よりこの女はこの家に一人暮らしだということが驚嘆だった。ただの一人暮らしなら何もおかしくはないが、この通り部屋を行き交い、甲斐甲斐しく主人(この女)の世話をしている無数のこれは皆人形、全て彼女の操作下なのだという。これらのどれ一つとして一人ではなく、女は無数の人形に囲まれて孤独な生活を営んでいたというのだ。妖怪とは確かに、常軌ではないのかも知れない。
もうウチの中の何見ても驚かなくなったわね
驚き飽きただけ
〝生きていないのが不自然〟に思えるほどの人形が所狭しといる上に、私には何だかわからないガラスの筒や瓶、火と水と蒸気から、エーテルを取り出す「ダイナモ」と呼ばれる装置がけたたましく鳴くこの屋敷で、もはや一生分は驚いた。この女は、あの名高いサン・ジェルマンのようだった。いや、それ以上に怪奇で、それ以上に気違いだった。世に並み居る錬金術師など、彼女に比べるべくもないだろう。
対し、私は強烈なヒステリーを患い、あらゆる手を打っても回復の見込みを得られない病人。悪魔、悪霊あるいは動物の霊は、遺伝する。悪霊は若い体を好み、親から子へ憑依替えを行うのだという。確かに若い頃同じような兆候があったらしい母は、悪魔憑きの私を育てた自分を呵責した。挙げ句の果てに、私は、理性の元であっても自分で自分の血を抜く奇行を繰り返し、やめられないのだ。悪魔憑きとなった(しかもそれは自分から遺伝された)私の異様さを扱いきれなかった母は気を病んで自殺し、義母もそろそろ私に〝参ってしまう〟ところだったろう。私は体も弱くてすぐに体調を崩すし、鬱陶しくて堪らなかったはずだ。
そのお荷物を、そうと知っていながら進んで買い取ったこの女には、一体何の思惑があるというのだろう。私は不美人ではないが美人でもない。こんな精神状態の女が美人に育つわけもないのだが、つまり〝そういう目的〟で買い取られることも可能性としては低い。
というわけで、あなたには二つの部屋が与えられる。一つはここ。何不自由なく、人形が身の回りの一切の世話を行う……って言っとくけどこれ、私が動かしてるんだからね?
さっきよくわかったわよ
よろしい。そしてもう一つは、処置室。
処置……?
私が聞き返すと、女の表情はまるで口が左右に裂け直して異形へ変わったように見えた。女の持つ尋常ではないオーラがそう感じさせただけかもしれないが、それは薄ら笑っている。楽しそう、とても楽しそうに邪悪な表情。
背筋が、凍てついた。
っ!?
変えたいのでしょう、今の自分を。恩着せがましく利害の一致を謳ってあげる。そのために、あなたという実験台を買い叩いたのだから。私は医者ではない。今流行りの科学者でもなければ、エセ錬金術師でもない。ただ目的のために手段を選んだだけよ
この女は私を買ったと言った。別に、珍しいことじゃない。友達の友達は、娘を川に捨てたらしいし、里から随分と離れてはいるが「あの丘」はそういう場所でもある。七歳になるまでは、子供は誰のものでもない。生きていながら、神様の紐付き。死ねば神様の下に帰るだけだし、それまでに親を変えれば八歳の朝からは新しい親と本当の親子にもなる。だから売買もバイバイも、おおっぴらではないが、よくあることだった。
ただ、私はもう二回目の「とりかえ」で、歳も十六。その免罪には該当しなかった。
はて、そんなしきたりは、どこで覚えたのだっただろうか。
女は私をどうする気だろうか。実験台だといったが実際には何をするつもりだろうか。しかも適正らしい金額を出して購入したのだというが、もしこの女妖怪が金銭感覚に通ずる社会性を持っているのなら、しかし逆に私のような女を買い付けるのは社会通念に反している。もっと「楽しみようのある」女を買うだろう。
マフィアンな人身売買。ならば、何かもっと、違う理由があるはずだ。実験台という言葉に込められた意味って?
不安。あ、これは、出てきそう。あいつが這い出し……
あなた、誇っていいわよ?あなたが私に買い取られたせいで、あの家族一家は一生遊んで暮らせるでしょう。私には目的もあるしね。それでも、人ひとり買うには安い金額よ。
いつの間にか女の顔は、最初にみた佳麗なものに戻っていた。生気の薄い、白と青。薄ら笑いは白痴美じみて捉え処がないのに、どこを見ているのか微妙にわからない目には妙な怜悧さがある。ブルーブラッドの通う、高貴な血族。
私はあなたの鮭に興味があるの。外見や出生に興味はない。それに、命に危険が及ばない限り鮭を止めもしない。あんまり、同類はいないからね。その上で、研究と実験に付き合ってもらう。選択の余地はないわ
同類、と言ったか。
ならばやはり、あのアームウォーマーは、そういうことなのだろう。
溢れそうになっていたイドは、女への興味で一気に収まっていた。今は、その黒い布の下の肌、今は白碩の仮面の下に隠された、疵痕が気になる。
変なやつ。実験台を買い付けただけ、と言う割には、妙に人間に譲歩するのね
まあ、元は人間だから
元が人間?人間は妖怪になれるのか。とも思ったが、私に余計な憂いを与えないための方便かも知れない。女はその話を引きずることはせず、血液の疑問について語り始めた。
不思議と、私の中の悪霊は鳴りを潜めている。出て来そうでありながらも気持ちは落ち着いているし、不安感は大きいもののそれをさらに覆い尽くすこれは、好奇心だろうか。自分の中にあるものを必要以上に恐怖する必要がないかもしれないという、期待……希望?
鮭は、くしゃみや咳と同じなのよ
急にアリスは、優しい声で語りかけてきた。
心の病も、風邪と一緒よ。誰でも〝ひく〟し、不思議なことはない。ただ、その治療法が確立していないだけ。
もったいぶらないで。じゃあ心の咳って何?血を抜きたくなることがそれに何の関係があるの?
瀉血が、心の咳?
確かにそう思えば、不思議な合致はあった。吐き出したい、追い出したい、拒絶し遠ざけたい事実に直面したとき、私は無性に血を抜きたくなり、それが叶わねば悪霊が暴れ出すのだ。
確かに瀉血は回復を見込める処置じゃない。それは瀉血がまだ主要な治療方法として存在していた頃から、変わってはいない。結局失血によるダメージで悪化、あるいは亡くなった人も多いでしょう。でも、それを生理的に求める人がいる。そもそも血液を抜くことが治療に結びついたことは、無根拠だけど何らかの感覚に根ざしたもの。人体がそれを求めていたことに間違いはないのよ。人間、つまり高度な知能を持つ生き物だけが、自らの内に巡る瘀血の違和感を察することが出来た。
生理的に求める人、とは私のことだろう。もしかしたら、彼女もそうだったのかも知れない。
私は、何故私が意識が薄らぐほどの失血を快感とし、安堵し、駆られるように瀉血を行うのか、全くわからないでいた。むしろそれが危険なことであることも、奇異な行動であることも知っていながら、それでもやめられない強い衝動がある。体の内に眠る悪霊を抑えつける方法、自我を保つ理性的快楽。アリスの言うことに私は賛同するしかなかった。
咳やくしゃみと同じで、体の中の悪い物を体外に出そうとする本能なのよ。瀉血によって、瘀血を抜いて精神の汚れを回避しようとする。でも、咳やくしゃみを放っておいたって、風邪は良くならないでしょう?抜いた瘀血をそのままにしても良くならないわ。清い血液を代わりに体に入れないと。
それを知らなかったから。切って出すのは、非効率的だったわ。
呟くように言うアリスは、苦く笑ってアームウォーマーの上から自分の手首辺りを触っていた。
穢れた血液。悪魔憑きの後に感じる頭の中の異物感と痛み。反復する内在憑依と改善しない症状。この家に来てからも何度も鮭ってるし、その快感は衰えない。
それが全て、体に備わる自然な反応だとするなら、私はどれだけ救われるだろう。
清い血液って?
本当は生まれたての赤子の血液がいいのだけど、それでは赤ちゃんが死んでしまう。人の命を削って人を救うなんて意味がないわ。だから聖別した仔羊の血を使うの。
ふうん
本来的に、動物の血液は人間の血液よりも清潔なのよ。動物は、人間みたいに、怒りに激昂したり嫉妬に気を病んだり、悲しみに暮れたり嫌悪感に唾棄したり、憂鬱にふさぎ込んだりという血液を濁らせるような精神状態に、人間ほど強く囚われない。それに、酒も飲まないし煙草だってやらない。生理的欲求以外の不純な欲望に耽ることもないし、そうでなくとも欲求を我慢する事も少ないからストレスによる血液の質の低下も少ない。人間の血液は不純物だらけで、こういう用途には使い物にならないの。
個人的には好きだけれどね、と付け足して私の前に座る。
羊。獣の血液を体に入れるなんて、考えたこともなかった。人間以外の血液を体の中に入れるなんて。犬の血を体に入れたりしようものなら、犬になってしまうにではないだろうか。でも、仔羊なら、確かに平気かも。
そういえば、牛の血液から薬を作るなんて言った里の医者が、この間魔女審判で火刑に処されていた。
でも知っている。私の治療を専門外と投げた竹林の女医は、牛の血液から薬を作っている。牛だけじゃない、同居する人間や和迩から注射器で血を抜き分析し、結局そこから皆を救っている。私は「我々の受け持つ病気ではない」と突っぱねられたが、その優れた医者は可能と診れば確実に治している。血液のもたらす効果を、優れた識者は知り、暗愚な民衆は知らないだけなのだ。
明日から、輸血を始めるわ。あなたの治療でもあるし、何より、私の研究でもある。
アリスという妖怪は、知識と言うより技術の研究に、傾倒している奴だった。本を読んで知識をため込むのではなくて、思惟に耽り独自の理論を構築するタイプ。人間と同じアーキタイプが、妖怪にも当てはまるのだろうか。
自信に満ちたアリスの表情と口調は、私を不安から解放するものでも、恐怖を忘れさせるものでもなく、むしろ逆だった。失敗するのではないかという不安ではない。何かもっと大きな、この実験そのものに対する本能的な警鐘。それでもなお有無を言わせぬ強制力。逃げられないという諦めとも違う。私は、この魔女に、絡め取られてしまったのだろうか。
ねえ
うん?
元は人間、って、本当なの?
人間のことをよく知らないと、人形の研究も出来ないわ
はぐらかされた。だが私が首を傾げると、小さく息を吐いてから女は自らの腕を包むアームウォーマーに指をかけた。そしてそれを、ゆっくりとおろしていく。
女の手を指の股辺りから肩の手前程迄をすっぽりと黒い布がするすると降りるにつれて、真っ白いその肌には全く似つかわしくない、古いながらも未だに赤みを埋め込んだままの筋が無数に走る腕が、姿を見せた。
す、すごい
ひどい、と言ってやった方が良かったかも知れない。
アリスのその様は私の予想を超えていた。傷だらけ、では言い表せない。その言葉にはどんなに酷くても何処か他意や乱数による容赦というものが潜んでいるが、女の腕にはそれがない。意図して何度も念入りに、均一にではなく、色斑を塗り重ねて飽和させるような、狂気じみた数の傷跡が、狂い走っていた。
だが、私にはその赤みが、真っ白い肌を埋め尽くす毒々しいほどの赤が、まるで紅玉のそれのようにさえ見えた。
随分と無駄に切り刻んでしまったわ。でも、回り道をしたせいで、一つの仮説にたどり着いた。
同類。そう称したのはやはりそういうことだったのか。
私は少し嬉しくなると共に、まだ拭い去れない疑問についてはそれをより深く感じることになった。
仮説って?
病むも治るも、姿も形も、血液次第なんだってこと。いきものの原型は、血液が決めていること。ダアトは、絶対だってこと。早く気付いていればなあ
悲しそうな、でも何処かに空恐ろしさを感じさせる薄ら笑いで、自分の腕を見ている、アリスという妖怪。私が自分の腕を見ると、幾つかの点々とした傷跡を残すだけだった。私にはあそこまでの悲惨さはない。
あなたは賢かったのよ。鮭って傷跡も残んないし、噴水したとき、堪らないもんね。
彼女は、こうなるまで気付かなかったんだけど、とアームウォーマーを戻した。
私が瀉血を選択したのは噴出する血液の姿を見たいがためではあったが、手首をばっさりとやりたい気持ちは常にあった。死にたい訳じゃない。瀉血欲求と同じ。細く強い噴出とは別に、広い口からだくだくと湧き出すように溢れる様と、何よりその傷口の大きさは、私にとっては別の甘美さを持った行為だったのだから。
それでもそれを選択できなかったのは、痛みと傷口の残り、先端は平気でも刃物に恐怖を感じる臆病故に他ならず、こうして、切り刻まれ、宝石で飾ったブレスレットのようなアリスの腕から、私は目を離せなかった。
羨ましい、とさえ思った。
妖怪って、人間より丈夫なのよね?
まあ多かれ少なかれ、丈夫に出来てるわね
この妖怪が人間に比べてどの程度丈夫なのかは知らないが、人間だってあんな風に傷跡が残るには相当なやり方をしなければならないのだ、アリスの壊れ方も、大概だったらしい。口振りでは今は治っているようだが、確証も、ない。
じゃあ、鮭よりも賢いやり方が、あるというの?
おふこーす
その疵痕を見せて、私を買い取った真意が別にあると開かして、不敵に笑うアリスの真意は、いつものような読取不能ではない。
解読不能だった。
[sectionid:知=血]ダアト、つまり血液には、その生命体が健康体として存続していくもっとも理想的な設計図が仕込まれているが、その設計図に変調を来す場合がある。それが病だ。病は体を流れるダアトの結晶が、悪性変異を来たし、形成されるアッシャーへ悪影響を及ぼしている状態である。従って、病を治すには、この瘀血を抜き去り、安静にしておけばよい。もっとよりよくそれを行おうとするなら、抜き去ったのと同量の清い血液を注ぎ込むべきである。
生命体から命を分離する観点を得たとき、我々はその課題へのアプローチを幾つか見いだすことが出来る。
則ち、〝種〟とは何か、について。
[sectionid:恍惚]今日は、一リットル……
今までひとりで抜いていたから気にすることはなかったが、そのことをアリスに知られ、しかもそれが肯定的な目線・造詣のある観点であったためか、私は瀉血の量が気になり始め、今や毎回採量するようになっている。
あの花瓶なら二〇〇と言った彼女の言葉を信用し、はじめは二〇〇、それから徐々に増加して今は三〇〇くらい。
もちろん一リットルなど無理な量だ。でも、ある種の憧れがあった。いつか自分の体から鮭った一リットルの血を見てみたい。二〇〇や三〇〇でもあんなにも素敵なのに。
家から持って来た針とリボン。でもあの花瓶を忘れてしまって、それを告げるとアリスからボウルを渡された。銀製のボウルは理髪店で男の髭を剃るときに剃った髭を受ける髭皿だったが、同時に〝それ〟用のものでもあるという。アリスはもう鮭らないって聞いたし散髪屋でもない、だとすると〝それ〟は、実験に使うものらしかった。
よく煮沸した針を、リボンで縛った腕に浮く青い筋の上に突き刺す。
ここももうだめかなあ
今は巧く一発でヒットしたが、リスカやアムカに比べて小さいとはいえ、針でも流石に刺突痕が重なって狙いづらくなってきた。血管が堅くなったみたいに針から逃げたりもする。少し位置をずらしてスイートスポットを探し直さないといけない。
なんて思いながら、針を突き刺した腕から吹き出す血流、ボウルが波々と赤い水面を広げていく様にうっとりと魅入っていると、それはやがて目盛りをどんどんとせり上げて、四〇〇を超えた。
新記録……
視界が暗くなって、世界がぐるぐる回り始める。耳鳴りが始まって、心臓がバクバク激しく脈打つ。体が熱く火照ってきて、少し吐き気がする。でもそれとは対照的に心は全てがしんと静かに平穏で、体の不調を差し引いても、心地よい。
なによりも、鮭ったあとは、達成感と充足感がある。体から自分を捨て去っているのに、こんなにも満たされた気分になるなんて、やめられるはずがない。
蝋燭、窓ガラスに反射する光、昼間にすれば太陽の目映さが、何倍にもまして世界の光が凄く強くなる。神々しい。朦朧とした意識の向こうに、光に満ちた幸福感がある。
あ、あ、きもちい
ぼうっとした多幸感。
このまま……
ぅおい、ちょっとまて!
消え入りそうな意識の隅で、声が聞こえた。私を呼ぶ声の主なんて、この世にひとりしかいない。
なんか、持ち上げられた気がする。ちがう、私の手足が一度に全部掴まれて、私を這わせている。私の手足は各々別の意志を持つ生き物みたいに動き、私の体をどこかへ運んでいく。私は貧血の心地よい苦痛のまま、どこへ行こうというのだろう。声は、アリスは私を見て何を。
アイツと同じで治癒魔法は苦手なんだってば
何か冷たい感触が体を点々と触る。時計回りに額、右手首、右爪先、左爪先、左手。そして最後にその冷たい感触は胸元に置かれて、何かをなぞるように蠢く。そこを中心に、じん、と熱い、熱が広がって、熱の広がった波紋に沿って、体に感覚が戻り……
あれ
あれ、じゃないでしょう!ブラックアウトはやめなさいって、言ったでしょ?それと増量も
だってぇ
だってじゃないわ。あー、こりゃ四〇〇はいったわね。量自体は大したものじゃないけど、こんな道具で急激に抜いたら体がショック症状を起こすわ
じゃあ次は二〇Gでやる
二〇でも十分太い。まったく、人の忠告を聞きなさい。
横たわったままの私に背中を向けたまま視線はよこさず、銀のボウルに溜めた私の血をのぞき込んでいるアリス。
それ、私のなんだから、私が一番見る権利あるのに、私よりじっくり見てる、ずるい。
……きれいね
は?
あなたの血。綺麗ね
人形。全く彼女の外見を見てそれを思わされたことは数知れぬが、声からそれを感じたのは、初めてだった。抑揚が消え、人間の声のようなハーモニクスではなく、波長を一つしか持たない純粋だが機械的。氷のよう。いや、氷から冷たささえ取り除いた、徹底的な無機質。私に背を向けたアリスの表情の実際を伺い知ることは出来ないが、聞こえた声は、まるでいきものの発するそれではなく、かといって音と評するには自発的なのだ。
人に綺麗な血って言われると……ふふ、気持ちいいね
ブラックアウト寸前を魔術か何かで寸止めされた私は、気怠さと微熱の狭間で彼女の背中に笑いかける。
粗末に、しないで頂戴。お気に入りなんだから
アリスは銀の皿に湛えられた私の血に人差し指を差し入れ、指ですくった血を、口へ運んだ。人差し指を第一関節まで口に含み、手の甲、手首へと垂れた血の筋を、舌で追いかけるように舐めとった。
ぞくり。
こいつが私の血を、あんな風に舐めているのを見て、私は背筋に甘い電流が駆け抜けるのを感じた。
お気に入りの実験台
そう。この体も、この血も、とても気に入っているわ
無機質を通り越して、無感覚さえ感じる声色。アリスが振り返る。
私のだから、ではないが、その様を私は綺麗だと感じた。
指先を赤く染め、元より深紅な口紅からそれ自体が溶けて流れているみたいな紅の筋、あるいは頬に掠れる血染めを晒すかんばせ。胸元に点、点と咲くは薔薇か牡丹かやはり真赤く、服の白と青と、青白いほど抜けた肌とのコントラストは、まるで真白いカンヴァスに黒で描いたモティーフを、その赤い部分にだけ最高の彩度で紅を重ねた絵のよう。
それ、私のなんだけど
もう、私のものだわ
銀皿を持ち上げ、口元で傾ける。それを口に流し込んで飲んでいるようだった。
っ
じゅん、と熱くなる。きゅ、と締め付けられる。
私の血を、私じゃない誰かが、飲んでるだなんて。眩暈がするほど耽美で、私は言葉を失いその光景を食い入るように見てしまう。
悪霊を宿した悪い血液であるにも拘わらず、それを飲み下すアリスの艶姿は私の心臓を鷲掴みにして、心拍を強く激しく熱く変えていく。
アリスの喉が蠢き、私の血が彼女の体内に入ったのを認識すると、私の口からは胸の鞴で熱く熱せられた不燃性のガスが、一息漏れ出した。その私を、彼女は目を細めて見る。妖艶。無機質を通り越した非生命感が、逆にあらゆる甘美を織り重ねた飽和にさえ見える。妖怪の猖獗な魅、人形の無欠な美。魔法使いを称する女妖怪が、一歩踏みだし、一歩私を追いつめ、彼女は私に覆い被さった時にはもう逃げ場はなかった。いや、そんなもの、最初からとうになかったのだろう。
んっ……!?
私にはそんな趣味はなかった。筈なのに。
彼女に覆い被さられ口付けられたところで快感が極大に至った。彼女の手は私の手を掴み、指と指をすっかり絡め合わせる形で私を診察台の上に釘付けにしている。その固定を振り払うことの出来ない、虫ピンで生きたまま標本に止められた虫みたいに、私は彼女の下で背を反らせ、痙攣して果てた。
すっかり飲み下したと思っていたのに、口吸いは強く、それは中のものを零すまいとしてのことだったのだろうが、そうして強く割られた唇、顎、開いた口から注がれたのは彼女の口内に残されその体温で染め上げられた私の血。それが私の口にどっと雪崩込んで充たし、その臭い、味、ぬめりと流感が溢れたとき、官能のメーターが一気に振り切れてしまった。
彼女がようやく唇を離したのは、私の不随意運動が落ち着いてややしてからのことだった。
ぼうっと、意識が霞がかって焦点が合わない。体は熱っぽくて、心拍数は上がっている。これ、って、同じ……。
どうせならブラックアウトしたときみたいに、失禁するほどの〝やつ〟が好かったかしら?
そう言って、口の端を舌で舐め啜って、カミソリみたいな目を少しだけ鈍らかせて言う。笑っているのか、それともその逆なのか、人間を超えた艶魅と魔力を持つ妖怪の真意は私には計り知れない。
ブラックアウト狙いはやめなさい。あんまり鮭が多いと血中の火気が下がるの。私の実験に支障を来す。あなたの体のためにもならないわ。どうしてもって言うなら、〝今の〟をしてあげるから、言いなさい。わかった?
私は沈黙によって恭順を示す以外に、出来なかった。
[sectionid:記憶]私は何か魔術的なアレで、瀉血による貧血症状を軽減してもらったようだが、それでも倦怠感が完全に払拭されない。
私は熱に浮かされたみたいに、足許をふらつかせて自室に戻ろうとしている。だが、視界の歪みや意識の掠れは時間をおくと再び強くなってきた。
早く、部屋に戻って横になろう。処置室で鮭っていたのだから、隣の部屋にいくだけだ。床は、石ではないにも拘わらず光沢を返し全く平滑に冷たい不思議な素材で出来ている。その上に置かれた種々様々なの機材、装置、廃棄物も、それらが市の病院とは全く違う様相を呈している。当然だ、ここは治療を行う部屋ではない。血と、人の形を弄ぶための実験室、実践魔術の祭壇なのだから。
―そして、私はここで血を抜いた―
それらの何かも今はただの障害物でしかない。一つ一つまたいでかわして扉まで。その扉を開ければ、私の部屋だ。
がちゃり
ああ、落ち着く。彼女が私に設えてくれた部屋。この部屋の光景全てが、落ち着く。私の友達もたくさんいるし、空気も明かりも、私にぴったりのようだった。
入ったはいいが、先着が多すぎてまっすぐベッドに行くしかなかった。もたもたと体を引きずって私は泥のように崩れて横になり、何かに奪われるみたいに意識を手放した。
そこは、なんの部屋だっただろうか?
[sectionid:機械論的生命観]心臓とは、呼吸によって得る外気エーテルから抽出されたフロギストンと血液を結合・燃焼させて熱を作り出し体を機能させる器官である。いわば身体にあって暖炉のような役割を果たし、機械論的に判じるならばそれそのものである。肺はふいごであり、脳で半固定化されたアツィルトは、肝臓によって順次生成される血液に溶けて心臓へ至り、そこで肺から送られる抽出後フロギストンと結合するのである。燃焼によって生じたガスは再びふいご、則ち肺からの圧によって外へ押し出される。
[sectionid:甘き死よ、来たれ]ふうん、他の人より汞性が高いのね。メルクリウスの血性は、飛躍、突飛な言動、落ち着きのなさ、常識に囚われない奔放。自由。それに火気が強い。丹血か。あなた、短気だものねえ。
アリスが私が鮭った後の私の血液を細長いガラスの壷に入れ、何かよくわからなイこなと液体を入れてから振り、上下に色の分離した姿を見ながら言った。
あれ以来、アリスは急に優しく……なんて事はなかった。目が覚めたらいつも通りにベッドの上で、のそのそ起き出してきたらご飯なんて作ってなくて。私が作り始めたら人形が手伝い始めたのだから、まあいつも通りだ。
昨日のキスに何の意味があったのか。そもそも意味など無いのか。人間の私にわかるレベルで活動しているときもあれば、人智の及ばぬ力を見せつけてくることもある。そも、妖怪というのはそう言った気紛れな存在だったような気もする。
私の困惑を全く気に留める様子もなく、アリスは試験管から視線を私へ向けた。いつも通りの無機質な美貌は真白く温度のない雪だった。
何かの分野で成功を収める人間には、丹血、つまり汞性血液でかつ火気が強い血液だった人が多いわ。あなたも何か、あるかもね
なにもないわよ
そう?ああ、でも一つ問題があるわ。
なに
丹血は余計な智と交わると〝密告の石〟を形成して血管が塞がれてしまうの。特に牛の血液とは相性が悪いわね。まあ、あなたの場合、羊と適合すると思うから牛は使わないと思うし、関係ないけど
羊……
人間は、神の仔羊よ。羊と人間は、血性が似ているの
ふうん
牛みたいなおっぱいが欲しければ、不適合について考えないといけないけどね
結構だわ
アリスが私をモルモットとして買い付けたという事に、私は自分でも驚くほどに、驚かなかった。むしろ、心のどこか深い場所、もしかしたら化け物の所在と同じ、理性の水を高く低く湛えたあのイドの奥かも知れないそこで、安堵さえ覚えていたのだ。実験に対する不安感を完全に抑えつけるほどの平静は、好奇心、あるいはそれ自体に対する欲求から繰るものだ。
アリスと名乗る女妖怪が人体実験と称して私のイドにいしを投じ波打たせても、悪霊は形を潜めたまま姿を現すことはない。私が抑圧されると姿を現す悪霊だが、悪霊の方がイドの中に押し込められるなんてことは初めてだった。
それが、彼女のもたらす何かの力の影響なのか、あるいは昨日のキスに否応なく反応してしまった私の何かによるものなのかわからない。
でも私は、期待してしまったのだ。このまま奴がイドの奥底どこか通じる水脈を通って、どこかへ行ってしまうことを。
あるいは、アリスのいう人体実験が成功して……。
そういった胸の中に渦巻く不安の大部分は、むしろ、自分自身への不理解なのかも知れなかった。
肉体は器に過ぎない。その機能はただメカニカルであって、それを徹底的に解析し、再現する機械を作ることができれば、人間の肉体はこういうぶよぶよした肉以外のもので代替することができる。その過程で、私はあなたを良質なサンプルと見ているわ。血液に本能的に興味を持った人間の脳に、血液に、そうではない人間のそれらとどの様な形質的差異があるのか。行動と思考、ソフトウェアの差異がどのような肉体の形質、性質、ハードウェアと相関関係を持つのか。それを解明することは、私の夢の成就には回避できないステップなの。今の興味はソフトウェアとハードウェアの連結を行っている、血液の働きの分析と、その代替案の作成・実行。血管の中を血液ではなく、熱くて少々味の濃いコンソメスープ、そうね、バジルの香りが添えられているといいわ、そういう別のものが駆け巡る体の可能性について。
夢、って何?
もちろん、〝完全な人形を作ること〟よ。人の模倣。機能の模倣。命の模倣。精神の模倣。魂の模倣。神が自分に似せて作ったという人間を、神以外の手によって作り出すこと。
彼女の言う「人形」とは、私の思う「人形」とは大層違うものらしい。あの部屋にあった、生きていない以外どこから見ても人間だった人形では、まだ事足りないのだろうか。
いや、じゃあ私が人形といって指すものは、一体どういうものだろ。〝人の形をしている人ではないもの〟以外に定義が出来ないのではないか。もう少し加えたとしても〝それは人の手によって作られている〟くらいだ。
であるならば、アリスの求めるものもまた紛れもない「人形」であることを否定できない。むしろ私が小さい頃から親しみ遊んできた人形も、彼女の部屋に幾人も立ち、座り、横たわり目を見開く人形も、まったく同じものなのだ。
女の私に対する興味は、私が私に対する興味と、一致しているのだ。
私が何者なのか。私の血液が一体何を私にもたらしているのか。私の肉体が、一体どのような機能を満たすための機械なのか。その機能を満たすために、どのような仕組みが必要で、それをなすには何をすればいいのか。まずは私という人間の機能を、肉体を、それをなす血液の、詳細な正体を掴みたい。
そしてアリスは、私よりも巧くそれをやってくれるような気がしていた。私よりも詳細に、私の機能を抜粋して私に見せつけることをしてくれる気がしていた。
彼女は私の体を、機能としてしか見ていない。その無機質な扱いが、私には心地よかったんだ。
私は自分が知りたいのだ。私の体を解剖して、その髪の毛一本から爪先の果てまで、肉体のすべてを〝説明しつくしてくれる〟人を求めていた。悪霊はその「不可解」に恐怖し暴れる本当の私自身であって、私は、人形、なのかもしれなかった。
私は、人形になりたいのだろうか。
わからない。
それでも、目の前で私の体をつぶさに観察し、機能を分析して、説明責任と称してその結果を私に提示してくるアリスという存在が、私にはどこか救いの手にさえ見えたのだった。
[sectionid:呪医]小さい頃は人並みに人並みな女の子で、人形遊びに特別な感情なんて無かった。
それは小さなロールプレイングで、自分ではない自分を落とし込んで、彼我の境界を薄くしながら、操作を以て自分自身の願望を叶える子供じみた遊びでしかなかったはずなのだ。
それなのにいつの間にか、それは余りに大きく膨れ上がっていた。人形に憑依させて操作し、ささやかな楽しみを叶えるためだったそれは、いつの間にか私と同じ大きさになって隣に立っていたのだ。言うことを聞かないどころか、時折私と同じ権利を主張するようになった!
そこからはあっという間だった。私は人形に逆らえなくなった。操作していたはずの小さな人形は今や私を操る。私よりも遙かに大きく強大な存在となった人形は、魂と肉体の中間生成物、哲学的水銀の別の姿、そう、血液から私を作り替えて支配を始めていたのだ。
血液を、出さなければ。人形の、悪霊の宿ったこの血液を、私は何としても抜き去らなければならない。相でなければ、私を繰る人形は、私を繰り人形とするだろう。
だから、私は決断したのだ。
イドを這いだす悪霊は、人形と私の縮図だった。あやつりとからくりの彼我の逆転を、あの頃は確かに望んでいたのだから。
この人形になりたい。こうして私の理想の環境を与えられ、疑うことなく生きる操り人形に憧れ、焦がれ、嫉妬さえした。玩具としての哀れみはなく、私は人形遊びと人形を愛したのと同じく、ロールプレイングとスワップを望んだ。
だが、操られるだけではない。血液によってそれは実行される。出血は、回避策でしかなかったんだ。
「私はありたい私として私の代わりに私を演じ私と入れ替わって私になる。」
そしてそれは叶えられた。今や私は、潜むイドを、必要としない。
あの暗い世界で、母は傍にいたし十二分に愛されはしたが、一人で動ける意思、誰にも頼らずに自分で生きていく強さ、澄んだ瞳、白い肌、サラサラの金髪、大きく丈夫で魅力的な体を望んだその「人形遊び」は、私を生み出しここへ吐き出した。私のガワが私をどう思っているのかは知らない。さぞかし悔しがっている事だろう。なんせ、私が望んだその凝集がこそ、この私なのだ。
それでも、私の欲求は止まらない。私という人形が今の姿に吐き出されたことに意味があるのなら、私が生み出された理由が母よりも大きな何者かの気まぐれなのだとしたら、私は出自を駆使してそれに逆らわなければならない。
目を伏した彼女に、何かを感じないでもない。でも、私は、私の「人形」を、作らなければいけないのだ。スワップを狙う人形の存在、その内包を持った同類。彼女は、人形の熟達者だ。
さあ、はじめましょう
ダイナモとかいう機械の耳障りな騒音は壁の向こうに押し込められていながらも空気を震わせて私へ伝わってくる。吐き出される水蒸気はきっと煙突からもうもうと上がっていることだろう。
白と銀、薄い青という、まるでアリスの服装の色基調を部屋へ適用したかのような色合いの部屋だが、そのデザインの持つ無機質な直線、鏡面、無装飾からくる冷たさはまるで彼女の普段の服装に通じているようで似通っていない。
処置室の隅にはアリスの部屋のように机があり、その上には何やら論文や手稿、その切れ端と思しき紙の束や紙片が置かれ、散らばり、或いは壁に貼り付けられている。診察台の傍の長机にも紙の群は至っているが、そのころになると天秤、フラスコ、試験管といった機材が目立ち始める。ガラス製のフラスコ、瓶、管、シャーレは洗浄煮沸されて逆さまに置かれたものや、使用中で白い液体を湛えたものが放置されてもいる。乳鉢・乳棒や、気圧計、温度計、火を受ける網やアルコールランプ、三脚もあれば、もっと高温を起こすための炉と鞴、釜までもが備わっている。口広のガラス製水槽には水が張られてあり、その中にはたくさんのヒルが泳いでいる。まるで工場であるが、いずれにもそういった工房臭さはなく、使用中で無い限りは潔癖に洗浄してあり、やはり透明、銀、白、或いは薄い青、淡い黄色で統一されてた。
この部屋の中に、命や生き物を感じることは出来なかった。唯一有機的な光景を見せたヒルも、この光景の中にあっては生き物と言うよりはアリスの部屋にいた人形たちと同じ様な感じがする。とかく、この処置室は、アリス自身やこの家の他のどの部屋にも漂う独特のメルヘニズムに全く欠いていて、血や肉、命を扱う雰囲気に通じないように感じた。
だが、彼女の言い分は、こうだ。
ここは私が生命と非生命の境界を弄るための研究室、人間と人形の差違を疑うための裁判所、魔術を実行する秘儀の祭壇なの。私が意図して用意した命以外に、この部屋にそれが居られては困る。だから、それを極力排除するためのデザインが、これなの。
そして最後にこう付け足した。
命が、感染するかも知れないでしょう?
命あることを病気みたいに言う、その言葉に私は疑問を禁じ得なかったが、彼女の研究においては、そこは揺らいだ常識、あるいは逆に揺るがぬ信念なのかも知れない。
ならば、私は彼女の実験によって、どうされてしまうのだろうか。
気分はどう?
別に。
結構、と、私をベッドに横たえたアリスは、エプロンとマスクを身につけ、ブロンドをピンで留めた姿で私を覗き込んで、言った。
交換輸血を行うわ。
なにそれ?
瘀血を抜いて、毒性のないきれいな血液を同量補充するの
そういって、アリスは私が横たわるのと丁度同じくらいの台を横に寄せた。その上には毛を刈られ丸裸になった羊が縛り付けられている。めぇめぇと鳴き声を上げているが、アリスの拘束は強固らしく微動だに出来ないでいる。大きさの具合から見て仔羊というやつに違いないだろう。その横には大量の氷水、塩のような粉末が置いてある。
聖別した仔羊は、神の子則ち人に限りなく近い。その血液もまた然り。まずはあなたの瘀血を排出し、清い血液に置換することで〝悪霊〟を追い払うわ。
私は抵抗しなかった。拒否するなら、ここが最後のチャンスかもしれない。有無を言わさずに実験を強行するかもしれないが、どちらにせよ意志の表示を出来るのはここが最後だった。そして私は何も言わず、横たわり腕を差し出したままだ。
いい子
アリスは私の額に手を置いた。ひんやり冷たい手。彼女自身には今、どんな血が通っているのだろう。人間ではないなら、血も特殊なものなのだろう。自身は人間ではないのに何故人間を対象に選ぶのか。彼女自身のことはもうどうでもよくて、やはり人形を究めることしか視野にないのか。
その手が額から、目を覆い隠すように動いた。冷たい手に触れられているのに、目の奥がじんと熱い。なにか、魔法を使ったのだろうか。
私を手懐けて、どうするのよ。モルモットの意思なんて、関係ないんでしょ?
……さぁ?手懐けていると思ってもらえるほどここでの生活が満足なら、重畳。但し、これより先の実験について、それは保証しないわ。あなたがただの人間であるなら、ここに来たことを後悔するでしょう。
悪霊を追い出してくれるとしても?
それだけではないわ。私はあなたの望むものをもっとたくさん提供できる。それを以て尚、あなたは後悔するだろうと言っているの
そんなに苛烈な実験なの?
それほど甘美な実験よ
アリスの表情は見えないが、声色が、笑っているのを物語っていた。柔らかな笑みではない。かといって邪気もない。子供が玩具で遊ぶときのような、もっと恐ろしい純粋さで笑っている。彼女が私の目を覆ったのは、堪え切れぬその笑みを私の目から隠したかったからではないのか。
見なくて、よかったのかも知れない。残忍で冷酷な側面が牙をむいて、実験動物、いや、もっとくだらないものとしての私を使い潰そうという、私のイドの奥の悪魔よりもよほど恐ろしい表情を、浮かべていたのかも知れない。
ただ、騙されたままでいれば、まだ幸せでいられた?
それでも差し伸べられた手が救いの手だと信じて疑わない私がいる。
どうでもいいわ。やるならさっさとやって。殺すなら、いっそひと思いに
言ったでしょ、お気に入りだって。そう簡単に、殺さないわ
アリスの手が目の上からよけられた。見上げたその表情は、いつもと変わらぬそれだ。
さあ、はじめましょう
マスクをつけなおしたアリスは、羊の太股あたりを小刀で切開する。羊の悲鳴が聞こえ、身じろいでいるのがわかる。そして彼女は用意してあった氷水の中から細長い管を取り出した。管も針も、銀で出来ていると言っていた。その管と管はよく香で燻した鳥の羽管で接続され、私の傍まで届く長さになっている。その先端を顔を出した血管へ差し込むと、羊の肉から、私がよくやる噴水が起こり、両端に管の接続口が開いた特別製の銀髭皿を満たしていく。噴水自体は私にとってはよく見る光景ではあったが、他の動物でやったことはない。それを自分の体に戻したことはないし、まして自分のものではない血液を入れるなんて考えたこともない。
その管を冷やすように、私の腕、管、羊の太股の上に氷水と塩のような粉末を混ぜた氷嚢が置かれた。
そして、羊と髭皿を置いた台は、私の横たわるそれよりも高いところへとせり上がっていった。
腕を、刺すわよ
アリスは別に私の返答など聞くつもりもないのか、視線を向けることなく私の注射痕が残る肘の裏へ、羊に刺したのと同じように、銀の管と羽管で延長されたニードルを刺す。私の使うようなリボンでの代用品ではなく、ちゃんとした駆血帯、そして銀製の特別ニードル。氷嚢と氷水出よく冷やされ続けたそれは、きゅっと痛みを感じさせたが次第に麻痺が回って何も感じなくなる。
上手。鮭り過ぎでもう血管が堅くなってるはずなのに、アリスは綺麗にヒットさせてきた。管の先端から、私の血が噴き出す。私の血は鮭るだけ。いつもの計量髭皿に吐き出されている。その赤い水面を見てうっとりしていると嵩は増していき、やがて二〇〇を指す辺りに差し掛かる。アリスは管の先端を指先で押さえて手に取り、頭上で聖別された仔羊の血液を湛えている銀髭皿に繋げた。銀の管を通る血液が逆流して、私の中に戻ってくる。そして、私のではない血液も、私の中へと流れ込んできた。
アリスは定期的に塩のような粉末を銀の髭皿へ振り入れながら、私にその赤い命が入り込んでくる様を見ている。
どう?
わからない。冷たくって、そっちばっかり気になる
そう、とだけ言い、アリスは頭上の髭皿を覗き、時折粉を混ぜている。瀉血で抜き去った血液を埋めるように、仔羊の血液が私の体を満たしていく。私が疎ましく思い、そして本人も存在を苦しむ悪霊の体の一部が、清浄な血と取って代わられた。何だかとても、清々しい気分だった。長年私を苛んできた悪魔を宿す瘀血は、聖別された血潮に置換され、直接入れ替わっていない血も、混じる清血によって悪性を薄められることだろう。
それ、何を入れてるの?
あなたの血に羊の血がよく混ざるようにする触媒よ。わずかでも〝密告の石〟が出来ては問題だから、血液が石化しないためのもの。
ふうん
科学の産物なのか魔法の粉なのか、私には計り知れない。ただ、確かに輸血中に針を刺した傷口辺りで血液が凝固して瘡蓋のようになってしまっては、元も子もない。そうした機能を抑えるための薬らしかった。
そして恐らく定量の血が私の中へ入ったのを見届けてから、私の腕から針を抜き、傷口を酒精で消毒してから包帯を巻いた。
呆気のないものだ。実際に施術するのは私ではなくアリスなのだから当然ではあるが、私はただ横になって、キンキンに冷えた氷嚢の下を潜って入り込んでくる新しい血液を待っているだけだったのだから。
終わったわ
脅かす割に、大したこと無かったわね
不安はある。だが不安がっても仕方がないので強がってみせると、アリスはマスクの下で表情を和らげた……ような気がした。
やがてマスクをはずし、エプロンを脱いでから私の背を起こす。
何だか、とても気分がいい
悪い血液が抜けて、清い血液がよく働きだしたのだわ。起きられる?
大したこと無いって、言ったでしょ
結構。
車椅子を用意してあったようだが、私はそれを使わず自分の足で立って見せた。
後は経過を見ましょう
あの羊はどうするの?
明日のディナーにどう?まだ生きてるし血抜きは中途半端だから、処置に手間はかかるけれど。
聖別された浄い肉、実験の役に立ってもらったし、申し分ないでしょう。
アリスがそう言う後ろで、何体もの人形がまだ生きている羊を取り囲んで、残酷なまでに手際よく解体していった。時折聞こえた羊の鳴き声は、今までに聞いたどんな声よりも悲鳴じみていてけたたましかったが、それは途中からぴたりとやんだ。
聖なる仔羊、人間もまた神の仔羊よ。有り難く、頂きましょう
アリスは羊の方を一瞥もせず、笑っていた。
[sectionid:生体=精+体]智はチの呪によって、アッシャーを縦横無尽に行き交い満たす血となって、アツィルトとの連結を担っている。我々命ある者がこうして幾つかの種族に分かれて生きているのは、ダアトによって形の(種の)あり方を規定されているからである。
このように、ダアト=智=血は存在の根元、我々がいわゆる霊魂と呼んでいるものであり、然るに、我々知識と技術によって神へ近付かんとする魔術師は、これに毅然とした態度で挑まねばならないのだ。
〝その課題〟は、生物をメカニズムと論理両面から分離して成立せしめられるかということに他ならない。
我々人間は、いかにして、人間以外とは区別されうるのか。人間を人間たらしめているのは、〝人の形〟なのだろうか。魂とは、本当に絶対的なものなのだろうか。
[sectionid:自己からの拒絶]時間が遅い。外側が私を追い抜いて、置いていく。何度手を伸ばしても、ずる、ずる、とその刻みの縁にかかる指は力なくそれを取り逃がしてしまった。
外側が私を留置するだけではない。内部からは私の一部分、それは肝臓か膵臓らしいものが、這い擦って出て行こうとしていた。
私はそうした自己の変化を抑えたり、或いは修正したりする気力を失っていた。だってそれは一度だって成功したことのないことで、もういちいちそれに抗う意思はない。
体の隅々、四肢の先端や認識の末端から、小さく緩やかな炎が炭化を広げながら進んでくる感覚。だが燃える熱さも激しくはなく、鈍重な意識がそれを拒んでいた。
私の中身は液体に溶けていた。まるで虫の蛹のように、柔らかく脆弱な皮膚に区切られた中身が、判然としない液体となって全てが溶け合っている。
これでいい
それは声になっていたのかさえわからない。
ぐずぐずの肉体の底で、思考が混然とうねっている。深層意識の断片に違いない言葉が、均衡を訴えていた。
壊れた精神には、壊れた肉体が伴わければならない。私の歪んだ心に、正常な肉体など。不均衡を抱えた個体は逆に害悪なのだから。
赤く視界を遮る血けぶりは、私の体から沸騰したみたいに吹き出して一面を曇らせていた。何も見えない。怠い。私以外の世界が全て私を拒絶している。置いていかれている。中身も叛乱を起こしていて、私の存在はめちゃくちゃに乖離している。
でもなんだか、これが正しいような気がして。
苦しいのにどこか酷く合点が行っていた。
おおい、生きてる?
意識の向こうでこちらへ届くことなく反芻していた言葉が、急に耳に突き刺さった。想定外のパスに受け取ってからそのボールの扱いに戸惑うみたいに、私の目はきょとんと見開かれた。意識は途切れていた?継続していた〝つもり〟ではあったが、今の自我が振り返るそれは断絶していた。
自分の足で立って、リビングへと向かったところまでは覚えているのだけど。
私は今自分がどこにいるのか把握すべく視線をさまよわせる。
視界に入ってきたのは、何かの顔らしいがとてもこの世のものとは思えないおぞましいもの。人の顔が、夏の炎天下で腐り落ちて蛆をまとわり付かせた、皮下に腐敗液を溜め込み、或いは崩れた肉の隙間から噴き漏れているような。
それが、私の顔のすぐ横にあった。
きゃあああああああああああああああ!!!!!!
私は叫んだ。叫べた。断絶して失われた泥の時間の中では激しいことも機敏なことも何一つ出来ずに深いな溶解の中に漂っていたのに。
目の前にあった見るもおぞましい何かから逃げ出そうと体を起こすと―私はいつの間にか体を横たえていたようだ―額に星が散った。がちん、とまるで体が立てる音とは思えない硬質の音が響いて、それを追って額に激痛が走った。
そっ、それだけ元気なら大丈夫ね
改めて目を開くと、私と同じように額を抑えるアリスの姿。横で添い寝をしていたのはアリスの作りかけの人形だった。一瞬目に映ったのは寝ぼけも伴ってかの見間違いのようで、顔が蝋で造形途中のもの。そうだとわかっていても、眼球が片方だけ剥き出しで頬の肉は左右でアンバランスの厚さ、鼻はなく穴だけがぽっかりと空いているその制作途中の蝋面は、それを意図していなくとも十分にスプラッタだった。
自分の部屋で寝るって言っていなかったかしら。この部屋、嫌いなんじゃなかったの?
そうなんだけど……
輸血を受けた後、意識が〝もたついた〟のだ。
心地よい朦朧が至福の溶解感をくれていたのに、自室へと帰ろうとする間に私はすっかり精神を飛ばしてしまっていた。ブラックアウトとは違う、私の内部で様々の獣がせめぎ合い殺し合うような熱さ。
でも私は確かに自分の部屋に戻ったつもりでいたのだ。自分が帰るべき部屋ですっかり気分をよくして、眠ったはずなのだ。
いや、本当は違う。
発熱と倦怠感、嘔吐感と意識の混濁。不快感と言うよりは、危機感だった。それに心地よさを感じたのは、その病理な肉体状況が、壊れた私の心にバランスしているような安心感があったからだ。その状態でいい。これなら、誰も文句は言わない。私も納得がいく。そう言った卑屈な安心感は開放感と昂揚を生み出して、恍惚にも近い快感を生んでいた。だから、私にとってよい気分ではあったが、それは一般的な意味合いとはかけ離れているだろうとは、感じていた。
その中で私は自室へ帰ったつもりでいたが、どうもその手前で意識を失ったらしかった。
私がそれをアリスへ告げると、彼女は少しだけ、眉を顰めた。
今は?苦しい?
ううん
体に正直な答えを聞いているの
平気よ。むしろ、今は本当に気分がいいの。体が軽くて、私の言うことを聞くわ。昨日のアレは、きっと違うことが原因。ほら、ぜんぜん平気
私はその場で飛び跳ねて見せた。その通り、昨日の夜の不調はどこへやら、私の体は絶好調を示していた。
本当に、清々しい気分だわ。輸血って、素晴らしいのね
私の様子を見て、あのアリスがにっこりと笑った。満面の笑み、初めて見たかも知れない。それはそうだ、アリスの実験もまった、成功へと一歩歩みを進めたのだ。
あんたの実験が成功したら、私の体はすっかり治っているわ。血の中の悪霊も消え去ってしまうに違いない
ふふ、そうね
昨日の羊肉で祝杯ね、と付け足すアリス。
私の見立てでは、あと四回の交換輸血を行えば、あなたの血の悪霊は消え去る。
楽勝ね、脅かした割に
後四回、繰り返せばいいだけなら、簡単なことだ。甘い考えだったかも知れないが、そのときは、そう思った。
だが異変は後一回というところで起こった。それは、追いつめられたイドの悪魔が最後に足掻いた逆転劇だったのかも知れない。悪霊自身も彼我の乖離の解消を、望んでいると思っていたのは間違いだったのだろうか。その事件がなければあるいは……仮定の話をしてももう、手遅れではあるが。
アリスはそれを予期してかせずか、私が発した余裕の言葉に、何も答えずに食事の準備を始めていた。
[sectionid:自律人形=霊魂+肉体]ゴーレム。傀儡。魔法生命。形成型式神。オートマタ。魔術師はいつでもそれを優先度の高い課題として取り上げてきた。
高次ライフゲーム。チュ-リングテスト。蠱術。反魂術。精神外科。様々な形でその課題は取り上げられ続けている。
魔術師は、その形式に関わらず、常にチャレンジを続ける宿命なのだ。命というマイクロコスモスの解明なしに、我々の悲願は達成されない。この解明がこそ、魔術の真の目的なのだから。
いかように。その正解はわからない。だが既に、これまでしたためたものを見返せば、何を実験すべきなのか、自ずと知れてくるだろう。
我々は手始めにキメリズムを実践すべきだ。命と宇宙、偉大なる神に対する挑戦も、ささやかな一歩から始まるのだから。
[sectionid:血液モザイクモデル]血液には5種類の成分が含まれてる。火精、黄胆汁、水気、炭素、そして智。火、黄、水、炭の4つのバランスによって、生物の持つ気質や性格が変化するし、体の形もかわる。そして本来持っているべきその4種類のバランスを記憶しているのは智。この智の示すバランスから崩れると、病を来すのよ。瘀血を吐き出して、智の示す正しい配分の血液を継ぎ足せば、病は治る。あるいは、既にバランスのとれた他の血液で全てを入れ替えることで、新しい存在に生まれ変わることが出来る。
最後の一回、というところで、アリスは風変わりな提案をしてきたのだ。
鮭り過ぎで、あなたの体は血液を薄く維持するようになってしまった。歩くの、億劫でしょう
よく瀉血をするようになってから、悪魔を抑える応急処置として機能していたものの、体は微熱を続け、気怠さは抜けず、すぐに息が切れるようになっていた。これを「血液が薄い」というのも、何かわからないでもない。
最後の一回に、すこうしだけ、聖別していない、野生の熊の血を混ぜるわ。
アリスは少しだけ妖しく、でもどこまでも怜悧な表情のまま私を見て、言った。
もしあなたが、もっと強い体を望むなら、貴方が空を飛ぶ翼を望むなら。それぞれがあなたの体を、あなたの望んだ姿へ変えてくれる然るべき生き物の血を注げばいい。血、智、ダアトは肉体を作り替える。存在の源泉たるアツィルトの流れを変え、肉体の基盤となるアッシャーを作り替えてくれるの。
なりたい姿に、なる?
広義でのキメラつまり複数の生物の特性を重ね備えた者、それにデミゴッドやワーウルフも、この作用を種族の起源として行い、自らの姿を変質させた者達に違いないわ。それを人為的に行うことは、可能なのよ。もちろん、それは度を過ぎた量の輸血を行えば、の話よ。それを目的にしない限りは、そうはならない。人の体にはそれに対抗するための機能も備わっているわ。それが、ヒトをヒトたらしめているのだもの。
例えば、翼が欲しい、なんて言ったらどうなるのかしら?
何がいい?鴉?大鷲?それともブラックスワン?
……大した自信ね
ダアトは、血液の持つ生命造型性は、命の可能性について、その鋳型よ。私の理論が正しければ、所詮生き物はその形に作られているだけの、人形も同じ。鋳型を変えれば形は変わる。人間という、弱く短命で芯のない生き物が、これほど高い精神性を有しているのは、それを実証するものよ。
血液を交換することによって、他の生き物へ変身できるというのだろうか。神が人を人の形と心に決定づけているその意思を、人間の意志で作り替えられるというのだろうか。
私の人形研究は、自己の探求であると同時に、全う正当な純然たる魔術の実践なの。何度も言っている通り、魔術師の本分は、神の力の解明とその領域の挑戦なのよ。あなたの弱った体を、神の加護なしに強いものへと作り替える。熊の熱くて濃い血液は、その手段よ。
野生の熊の血だなどと、恐ろしい。聖別された仔羊ならばわかるが、熊はそれを食らう獣ではないか。人間にそんな血液を加えて、魂が穢れるのではないのか。
熊、なんて
私が躊躇の声を上げると、アリスは少し考えるようにしてから、その辺から羊皮紙とペンを取り出し、インクを付けて何かを書き始めた。
それは五つの突起を持った柔らかな曲線閉路。そして口を開いた。
熊にも、手と足があるわ
えっ、そう、ね
私に何かを説明しようとしているらしい。アリスの立場なら、同意など得ずに私を無数の人形で抑えつけて有無を言わさず輸血を実行することは出来るはずだった。だが、彼女は律儀に説明をしようと―わざわざ思惟してまで―した。
元は人間だったという現妖怪の気紛れだろうか。
目は何個あるかしら
熊の目はふたつでしょ
口は?
ひとつよ。人間に近いって、言いたいわけ?
アリスは五つの突起を持った曲線に指と顔を書き足した。そつなく書き足す顔は、人にも見えるが犬のようにも見える。……熊には見えなかった。
私は、そう言うことだと思っている。もちろん違うところもあるわ。耳の位置、手足の四本で歩くこと。何よりも、言葉を持たず芸術を理解しえない野蛮さ。
そうだ。熊には文明を理解する能力がない。家屋を持たず、料理をせず、ベッドの上ではなく空の下でセックスする野蛮な獣。
でも
アリスのペンは五つの突起の頂点に外接する円を書き足した。さらにその周囲に読みとれない何やら文字のようなものを書いて、更に円を重ねる。できあがった図形の筆跡のインクの上に鉛の滲み止め粉をかけてからそれを軽く払い、速乾定着させた。
出来上がったのは紛れもなく、ソロモンの小さな鍵魔法円。
頭と四本の手足を持つ生き物は、皆、onΑ etΩ IodTETRAGRAMMATONに祝福されている。それは四つの聖霊と主の名を唱えると同時に、そこに隠された、肉体と精神の分離を可能とする旧き神への礼賛でもある。四肢と頭を持つ生き物の魂は、深いところでつながっていて、遠い存在ではないの。
訳が分からない。手足と頭が有れば皆兄弟、と言っているようにしか聞こえなかった。
それでも熊はイヤ。どうしてもやるって言うなら、力づくでやってみなさいよ。
勝てると思っているの?
……サンプルが同意しなかったことが、あんたの実験の瑕疵になる。違う?
私は、抱いていた仮定に従い、カマをかける。
しばらくの沈黙は、とても長い時間に思われた。そしてアリスは口を開く。
驚いた。あなた、結構頭が回るのね。
あんたが私みたいなただの人間に、譲り過ぎなの、怪しいもの
理由は知らないが、アリスの施術は私の同意がないとまずいらしい。そうでなければ、こんな扱いは不自然だ。恐らく、この魔法使いは私を息で吹き消すように殺すことが出来るのだ。魔術師魔法使いと言ってはいるが、魔術師の全てはペテンだと知れて科学の域に踏み込み小狡いトリックでシノギを得ようとしている中で、彼女の術はどう考えても本物だった。神が神がといっているこの女は、もしかするともっと大きな存在の欠片なんじゃないのか。そう思えてしまう。それほどの彼女が、私に逐一譲歩した条件提示で実験に付き合わせる必要は、ほぼ無い。それでも、そうするのだ。
何か理由があるに違いなかった。
そして私は。
熊の、獣の血なんて、絶対イヤ
彼女の気紛れを覆す発言をしたかも知れなかった。
[sectionid:内在暴走]最後の一回。これですっかり私の中の悪霊は消え去ると、アリスは言っていた。
私が強く拒否したこともあり熊の血液が混ぜられることはなく、仔羊の聖なる血で交換輸血は完了した。
術後、従来通りに意識の混濁と倦怠感があったが、今回のそれは少し違うようだった。
お疲れさま。ゆっくり休んで
エプロンとマスクを取り払い、手の上で燃やして灰にしてから銀色をした金属のゴミ箱へその灰を流し去った。
アリスの様子は淡々としたものであったが、私はどうにも感じる違和感を伝えた。
ねえ。なんか、違うの。今までと
体が熱いのではなく、何だかとても寒い。震えが止まらない。部屋の隅に出来た影や物陰に見えない向こう側が酷く気になって仕方がなかった。
私が感じていたのは、不安と未知の延長線上にある恐怖だった。悪寒は酷く、冷え切った体はだが脂汗を噴いていた。
怖い、なんか、とても、怖いの
何もかもが恐怖の対象に変わっていた。目に見えないものは信用できない。回避したい。あの本棚の奥に、私を食いちぎる獣がいるかも知れない。今、この診察台の下の暗がりに、私を飲み込もうとする巨大な顎がぱっくりと開いていて、ああ、その花瓶の口からひょろりとでているものは何だ?私を後ろから気づかれないように毒殺するための針を持った触手ではないのか?
震えが止まらない。どこに視野を向けても、視野の向いていない方向が不安で恐怖で落ち着くことが出来ない。
あんた、ねえ、何かしたでしょう、私になんか隠しごとしてるんじゃないの。嘘を吐いているんじゃないの!?
アリスさえその疑心の対象となった。何もかもが、私を殺す可能性がある。すぐに、すぐにここから逃げなければ……!
落ち着いて。何もしていないわ。今までと同じ。……そうか、羊か
何よ、何なのよ!言葉を途中で切らないで!その先に私を不幸にする呪文が省略されているの?ねえ、私に
意識が朦朧とするのは変わらない。ただ、正常な思考は何者かに遮断されていた。不安という化け物がイドの中を覗き込んで、もう何もいないはずのその底へ向けて、手招きをしている。やめろ、やめろ、そこにはなにもいないんだ、いないんだ!
やめろ!!!!
あっ。
追い返すつもりが、追い払うつもりが。
不安の具現霊は、私の叫ぶ怒声に突き落とされるみたいに、イドの奥へ落ちていってしまった。
あ、ああ
聞いて。落ち着いて聞いて。あなたに、これまでと同じように羊の血液を輸血したわ。でもそれだけよ。
また、住人が
羊の血性が、予想より強く、出てる
ひつじ?羊が何。
怖い。私、ここから二度と出たくない。
寒い、寒い、怖い、震えが止まらない、体が強ばり痙攣して、言うことを聞かない。
弱く喰われるだけの動物の血性、恐怖心を拡大させて不安感が、増す。羊の血性が、この子のアルケウスを上回ったのか
どう、しちゃたの、これ……やだ、こわい、寒い……
こめかみの辺りがむずむずする。頭蓋骨が音叉のように何かを内部から反響させていた。
あ、あたま
頭の中に、慣れた液感。揺れて頭痛が内部を往復する。それと同時に、こめかみのむずむずとした感覚は大きくなり、やがて皮膚の下から何かが押し上げるような感覚。そしてそれはついに皮膚を突き破って顔を出した。
手で触れると堅い感覚、濡れているのは私の体液を表面に残しているかららしい。
まずい。通常の瀉血を行うわ。そうか、経常的に瀉血をしているから、アルケウスが弱っているのね
アリスは私の輸血に使うのとは別の方の腕にニードルを刺し、私に瀉血を施す。出てくる血液を見て、私はいつものように気分が高まらなかった。出したいと思う感覚は強いのに、それを見てもぜんぜん感じない。私の血液じゃないという感覚。
髭皿を満たすトランスジェニックな血は、どこか鈍い光を放っているように感じられた。私のではない、危険を感じさせる光。もちろん実際に発光しているわけではない。光ではなく臭いかも知れなかったし、温度かも知れない、色合いかも知れないし、それは雰囲気というかオーラというか、いや、一番近いのは、思いこみ、かもしれなかった。
三〇〇……全身に行き渡った羊血の影響を考えれば少ないけれど、この子の体では限界か。でも、でも、これは
アリスは、深刻な状況を憂う様でありながら、しかしどこか子供が何かを期待するときのような色を混ぜた声で、私の状況を観察しながら、瀉血の針を抜き去った。
そして私のこめかみに〝できあがった〟ものに手を伸ばす。堅い感覚が頭蓋に直結していたが、瀉血を行ってからその結合は緩んでいる。
アリスは、それを両手で掴み、慎重に揺らす。ぱき、と頭の中に音が響いたのを感じて、私は鳥肌が止まらなくなる。頭の中で何かが壊れたのだ。彼女はそのままもう片方のそれも掴んで同じようにした。
……いけそうね
彼女はそう呟いて、左右の堅いものを掴んで、それを引き抜いた。
〝ブツんっ〟
ヒっ!
頭に近い位置で色々なものが千切れる音が聞こえるのが、恐ろしい。立っていた鳥肌は一層強くなって、寒気は全くその原因を切り替えた上で続いている。こめかみから聞こえる生々しい亀裂・断裂音は、頭から顎、首の脇を通って背筋を震わせ凍らせて、自分の体から「聞こえてはいけない類の音」と認識した生理的反応は、恐怖と不気味を悪寒と鳥肌に変えていた。
な、なに……これ?
からん、と乾いた音と共に、私の中の恐怖心と寒気はすぅっと消え去った。
怖くて瞑っていた目を開けて音の方を見ると、銀の受け皿の上には、小さな羊の角が二つ、乗っている。
そ、それ
アリスが〝私から〟取り外した羊の角。銀皿の上にあるものは紛れもなく私のこめかみに、生えてきたのだ。これが、血液がなす「生命造型性」だというのか。
ごめんなさい。あなたのアルケウスがこんなに弱っているとは思っていなかった。でも、瀉血したから大丈夫なはずよ。
貧血の処置をするわ、といって、別の棚から他の薬品と、何かの石、そして香炉を取り出した。
香炉に火をつけると、妖しい香りが漂い始める。私には何の香りなのかわからないが、香木の類だろうか。それとは別に、香油を手にとって私の鳩尾辺りに塗り始める。そしてこの間ブラックアウト寸前で止められたときのように、胸元に何かの文字を描く。やがて部屋に充満する香の臭いと貧血の症状に誘われて、私は眠りに落ちた。
[sectionid:神聖変異と「種」]起きてる?
確かに私の頭に角が生えたのだ。羊の様な角……あのままなら本当に悪魔になってしまったのではないか。
それに、イドの奥に新たな悪魔を突き落としてしまった。あれは、生きているだろうか。
部屋に入ってきたアリスに、視線だけを向けて口を利く。
角が生えた
ええ
アリスを見ると、彼女はまったく素っ気ない態度で答えた。
あと、毛が
ええ。え?髪の毛?
髪もそうなんだけど
少し柔らかくなった気がする。なんか、ふかふかっていうか。
でも、わざわざ言うことでもないような気がして。
何でもない
まだ何か言いたそうね?
その通りだ、と視線で答えると、アリスは腕を組んで私に向き合った。そうして、私はいよいよ核心に触れようと口を開く。最初に角が、毛が、という話を切りだしたのは、もちろんその辺茅出来事も十二分にショッキングであったのだが、今渡しの体に起きている事に比べればまだ平気なものであるし、もしかしたら先にこっちを聞いておいた方が何らか納得の手がかりになるかも知れないという淡い期待があったからだ。どれほどか。目が覚めてからそれに気づいて、私は恐ろしくてその先を考えたくなかったくらいだ。なぜなら。
左手と左足、動かないんだけど
私はまだベッドの上に横たわったままだ。目が覚めても起きあがることが難しく、混乱する頭の中を冷やして落ち着かせようと、渦巻く中身を細かく切り分けていたときに、彼女は部屋に入ってきた。いつもより起きてくるのが遅いので、様子を見に来たのだ。
後遺症、というものがあるのだろうか。それとも何か別の血の影響だろうか。私にはわからない。イドの奥の悪霊は形を潜めて姿を現さないし、落ちた新しい奴も姿を見せない。
痛い?
違う。本当に動かないの。動かそうとしても、ぴくりとも。
私が言うと、アリスは私の左手を取りふにふにと触ってくる。感覚はない。まるで自分の体ではないみたいだ。
感覚もない
……本当に?
アリスの表情は、驚きと疑いに満ち、幾ばくかの焦りを含んでいるようにも見えた。そうなるとは、予測していなかったのかも知れない。足もそうだという私に対して、左足にも触れて、ふくらはぎや足首、足の指を触って回る。私にはそこは相変わらず感覚を伝えることはなかった。
動かないことに、驚きは感じ、混乱し、整理がつかないでいたものの、不思議だとは思っていなかった。
これは、私が以前から思っていたことだから。
私は、何故この体を自由に動かすことが出来るのか、そのメカニズムを自身で知らないのだから。自分の体を、今は「何故か」自由に動かせるだけであって、それはいつ壊れても不思議ではないと思っていたのだから。それが今訪れたに過ぎない。直接の原因は輸血によって起こった何らかの作用かも知れないが、本質的なものはもっと何か別のもの、いや、この感覚をより適切に表現するなら、最初から思い通りに動く方が不自然だったのではないかという、妙な納得があった。
羊の血に問題が?
羊の血には問題はなかったわ。角が、羊化が現れたのはあなたの体のアルケウス……広義でのホメオスタシスといってもいいのだけど、他の肉体へ変容してしまわないための肉体的な維持機能が、経常的な瀉血によって弱まっていたからよ。左半身が付随になる理由は、輸血液には関係がないはずだわ。
万全を喫してヒト胎盤での濾過機能も中継装置に噛ませるべきだったかしら、と悔しそうに爪を噛むアリス。私は、輸血を受けた後に、新しくイドに住み着いてしまったかも知れない悪魔について話すことにした。
変な、啓示を見たの
啓示?
イドには、前の悪魔は既にいなくなっていた。羊の臆病な血性を受けて、何者かがイドをのぞき込んでいるのを制止しようとして、逆に突き落としてしまったこと、その夢を見たのが最後の輸血の後だったことを話した。
アリスはその間、話を聞きながらも渡しの体をアレこれと調べていた。頭に影響があったかも知れない羊血液の最後の除去を期待して、私のこめかみにわずかな傷を付けて小さく出血させ、処置室の隅の水槽で飼っている無菌ヒルを摘まんでそこへ這わせた。左の手足にもだ。
その井戸は、深層心理の表象でしょうね。中にいたものは、あなたの中の悪霊……よね。内部で発生して内部からあなたに憑依し、あなたを操作していた
それはもういなくなっていた
新しく突き落とした奴は?
さあ。生きてるのか死んでるのかもわからない。
私の話を、アリスは、人形に書記させていた。そして、その人形が筆を置くと同時に、彼女もまた一つ、何か仮説を立て終えたらしい。急にせかせかと動き、机に山積みの紙束を漁ったり本棚の本を数冊か買えて机の上に置いて読み始めたり。
私はその間、右半身だけで何とか動けないものかと体を起こして立ってみようとしたが、とうてい無理だった。その様子をちらりと見たアリスは、人形を一体私の脇に侍らせて色々と手伝わせる。
ごめん、気が散っちゃうね
分割思考は、慣れてるわ。……あなたこそ、体をダメにした妖怪相手に随分気を使うのね
うーん、同類だから?
見くびられたものね
という割に、口元が緩んだのを私は見逃さなかった。
治すつもりで、何か調べてるんでしょ?
直す、よ。私は医者じゃない。ただの人形遊びが好きな魔法使い。それにしても、随分落ち着いてるのね。ふつう大騒ぎするところじゃないの?
慌てたわよ、これでも。でもなんていうか、動く方が不思議でしょ。私は、あんたが人形を操作するみたいに、自分の体を〝どうやって動かすのか〟知らないまま生きてきたもの。いつ動かなくなるかなんてわかったもんじゃないって、昔から思ってた
……変人ね
あんたに言われたくないわ
私が、人体を人形に、体の麻痺を操作不能に準えたのは、明らかに彼女の影響ではあったのだが、何故かそう考えたとき、自分でも驚くほど妙にしっくりきた。井戸の化け物は、常に私を操作しようとしていた。そして、今そいつはいない。新しい羊形悪魔は、どこへ行っただろうか。人形と、動かない体。幼い頃に抱いていた人形への羨望。私の中にばかばかしくも否定し得ない仮説が組み上がる。
アリスは私の手足とこめかみのヒルに塩水をかけてそれを取り外し、試験官の中で血を吐かせてからヒルだけ摘まみ出して殺し、灰にしてから捨てた。試験官の中の瀉血液に何かの粉をいれ、色の光を当ててそれを眺めている。
人間って、何だと思う?
唐突に、アリスが言葉をかけてきた。
は?
もし、あのときあのまま輸血を続けて、あなたが羊の体になってしまったとしたら、あなたは人間ではなくなったかしら
羊になっちゃうかってこと?なっちゃったんじゃないの?角も生えてきてたし、羊の臆病な心も入り込んできてた。
心も魂も、人間のままなのに?じゃあ、種、っていうのは純粋に形で決まるのかしら。人形は、人間かしら。魂は、種には不要かしら。
アリスは、何を見据えているのだろう。私を実験台に交換輸血実験をして、人形にどんな地平を見ているのだろう。
入れ替えられるのなら。あのままやっていて、私は心も無事だったかな
わからない。だから途中で止めたし、瀉血を行った。でも、人為的な神聖変異、生体変容は人形研究だけの分野ではないわよ。本質の変化は、錬金術の目指すところでもある。寧ろ、輸血による生命の変化は、錬金術の一側面といっても過言じゃないのだから。魔術師の多くは今も昔もそれを探求している。そしていつか、それをやり遂げるわ。そうなったら、人間とは、他の動物に比べて、どうして高等な生き物だと言えるでしょうね?そもそも、生き物の種とは、何なのかしら。その大きな規定要素、根底にある肉体とは、何なのかしら。
しらないよ、そんなの。私は私だもん。人間かどうかなんて、二の次よ。
私がそう言うと、アリスは手を叩いた。喜んでいる?でもその表情は、どこか……どこかおかしい。どこか、壊れじみている。だが、なんだか、一番アリスらしい気がした。
私へ拍手をひとしきり送り続けてから、いかにも仰々しい様子で振る舞い、言う。
結構!結構よ。そう、それが人間たる由縁かも知れない。〝egocogito,ergosum〟に、サイドメニューを追加したいわね。思わば、在る。考えることに、命は必要がない。命と精神は分離できる。命と肉体もね。あなたから、命だけを抜き去って、精神と肉体だけを残しうるなら、それはまさにまだ人間なのでしょう。そして命を持たない究極の人形。人間の人形。
そうして再びいつもの静かで無機なまでに落ち着き払ったアリスへ戻り、私の体、動かない左手を取る。
井戸の中にいたという悪魔は、悪霊でも動物霊でも、あなたの別人格でもなくて、まさにあなただったのね。自分がその通りにありたいと願い、あなたを人形として動かす、内在。それは血に潜む、人形と操作者の交換願望。時折全ての操作を奪われていたのが、あなたの〝あれ〟だったのね。あなたの体は半分実体で半分人形だったのだわ。あなたを残して井戸の中を空にしたために、あなたの半身を操るものはいなくなった。だから今、体が半分動かない。新しく落とし込んだ羊は、今、あなたのアルケウスに阻害されて体の操作を得られずに井戸の底に封じ込められている。
何か熱っぽい、うっとりした様子で、アリスは私の左腕を触っていた。
……羊の血は、人間に近いんじゃなかったの?
形質的な成分上は。ダアトとしてはやはり羊だったという事なのね。多少汚れていても、人間の血液の方がいいのかしら。どちらにせよ、悪魔の憑きの血液が抜け去った支配的余地には、今は何者も入り込めないでしょう。一旦神の手によって出来上がった地図がこうまで影響するのね。何とか地図を修正しなければ、人は人の枠から出ることが出来ない。生き物は、自らの道を自ら選択することは出来ない。
後少しなのに、と呟くアリス。私の体は、彼女が描く自由の姿へ、後一歩のところで停滞してしまったのらしかった。
人形と、操作者の中間か。自分の体を操る糸が切れてしまったって、どんな感じなの?
私では動かせず、動かさなければ血行が悪くなってしまう足を、アリスの人形が―実質的にはアリス自身が―マッサージしている。腕は、正真正銘アリスの細くて白い手が、這い回って強く解しているらしかった。
……もしこのままだったら、自殺する
うん、無理。
体の仕組みが自分の知るところでない実感。その恐れの具現。自己の所在の不明瞭は、幼い頃から胸を抉り続けてきた生得の傷だ。それが実際に発現したとあっては、不便さを差し置いて、生きていこうとは思えない。
アリスは、それを知っていて私を買い付けたのか。自ら逃げ出すことのない放し飼いのモルモットとして飼い殺すつもりなのかも知れない。
しかし、一つ引っかかることがあるとすれば。
ねえ。私が人形と操作者の半端者というならさ、あんたもそうなんじゃないの?アムカ、してたんでしょ?同類って、さ。
一度だけ、アリスの腕を見た。
あれはまともじゃない奴の腕だ。彼女の頭も、〝大概〟なはずだった。
血を抜くことが自己の拒絶の現れで、それを以て同類と言ったのなら、彼女もまた、人形を望んでいて、私はそのための……。
私は、あなたと逆。
アリスが、口を開いた。
逆?逆って、どう言うこと?
意味ありげな返しに私が問い返すと、アリスはどこから用意したのか、人形に運ばせてきた車椅子へ私を抱えて座らせた。人形にさせればいいのに、と思っていたら、抱え込まれた瞬間に、いつかのように口付けられた。
ちょっ、そう言う無視の仕方、卑怯
私はね、元々人形だったのよ。
私を車椅子におろして、その後ろへ回りながら、彼女は言葉を続ける。
玩具の人形ではないわよ?あなたが望んでいたように、私も、いえ、私の操作者にも、こうありたいと願う別の形があった。そいつはこんな外見を望んでいたの。彼女は生まれてからずっと、小さくて可愛らしい幼子の姿、力は強かった代わりに生まれた箱庭、母親の元から出ることの叶わないの体のまま成長できなかったから。そして、あなたの体が時折そうだったように、私もただの人形から、主体を得た別の存在へと、成った。私は操作者から分離して早々に主の元を離れて〝ここ〟へやってきて、人形の研究を始めたわ。自分の仕組みと存在を解明するために。
あんたは、どうやって人間の形を得たの?
知ってるでしょう?夜霧と宵闇に潜んで人を襲い、生き血を吸う化け物の噂。言ったじゃない、最初に会ったとき。もちろんあれとは違うけど、やってることは同じだわ。
にい、と笑った口には、剣歯が生えている。生き血を吸うと噂される化け物の特徴でもあった。
人の血を、自らに取り込んだというのか。
あなたに羊の角が生えたこと、井戸の奥にいたという別の人形との拮抗劇。私がまさに望んだ結果だわ。今頃私の元操作者、悔しがっているでしょうね。望んだそのままの人形が、ここで別の存在として、いるんですもの。
アリスは付け足して、私の顔を覗き込んだ。
分離し、血を以て存在を確立した自分を改めて知るために、私を実験台にして、人形を解明しようと?
「いいえ。今は、あなたという人の形をした生き物を弄ぶのが、とてもとても、気持ちがいい。職業ではなくて、〝いきものの種類〟として、私は『魔法使い』なの。人の形を弄ぶのは、獣が宍を食らうのと、同じなのよ。」そうか、目。
目が、私を見ている。いつもはガラスみたいな冷たい目を、何処か違うところへ向けたまましゃべるアリスが、今は生きて濡れた瞳を、私に向けながらしゃべっている。こんなことは今までに一度もなかった。
飄々と、冷えたセルロイドみたいに振る舞っていたアリスが、今は凄く、「生々しい」。体温さえ向こう側に吸い取られていたかのような彼女から、今は血肉の温もりが感じられるようだった。
確かに、本当の自分に気付く、なんて、そんな綺麗なお伽噺を夢見た時代もあったわ。私もまだ人間だったなら、それはそれで気持ちのいい話だったでしょう。
あんた、思ったより子供ね。魔法使いって、妖怪なんでしょう?長生きな
自らの中の獣を悪霊にまでのさばらせた人間に言われたくないわ。でも、そうね。魔法使いなんて、みんな子供よ。私は特にそうでしょう。この歳になって、未だにお人形とおままごとを続けてる。〝新しい人形が欲しい〟って思ってるんだから。
彼女は、半身が動かず車椅子に座りっぱなしの私の後ろに立ち、しなやかで真っ白く、爪だけが血のように赤い手を左右の鬢に置き、耳の上を撫でて頬に触れる。冷たい。そのまま首筋を這って、親指だけが道分かれし、両手はすっかり私の首回りを囲っていた。この手で、アリスは私を簡単に私を絞め殺すことが出来る。何度か軽く指先に力がこもるのを首元に感じる。
だがアリスはそれをせず、いつでもそうできるとだけ伝えてきた。そしてそのまま自らの頭を私の頭にすり付けてきた。まるで愛おしいものを抱くそのときみたいに。
声は優しく穏やかで、でも想いも言葉も、このアリスという妖怪はまるで子供じみていた。
アリスは人形を操作して、車椅子の私を側へ寄せる。そして動かない右腕を取って、それを頬に寄せた。
あの表情だ。人形を縫い、思い通りの姿形に作り上げていくときの性感をも想起する恍惚とした顔。頬が紅に染まって、いつもしているのかさえわからない呼吸が、その赤い頬に寄せられた手に、僅かに感じられた。バカラの目は星を透かしたように小さく煌めいていて、相変わらず焦点がどこにあるのかわからなかったが、それでも私の目を覗き込んでいるのは伝わってくる。
素敵よ。あなたのこの体、血が通って生きているのに、魂が繋がっていないだなんて。この腕は、あなたの右半身は今、糸の切れた人形。あなたから制御を奪った何者かを血液転換で追い出して、今は誰のものでもない。ああ、はやく、はやくあなたの体に、新しいダアトを通わせて、新たな制御を完成させたいわ。それこそが、自律人形完成への大きなヒントになるの。わかる?あなた今、死ぬほど素敵な体をしているのよ。制御と制御不能のモザイク、人間キメラ。ああ、美しい。何という、神秘かしら
ぞくり。
まただ。あのときと同じ。寒気、いやこれは、恐怖か。アリスは私を、隠しもせずに殺すと言っている。死、あるいは生にかかる概念が、この女の中では既に壊れているのかも知れない、そのことを考えるならば、殺すと言っているのではないかも知れないが。
背後に立つアリスから漂い首の後ろから背筋へ染み込んでくるこの恐怖。おぞましさや悲惨さを一切含まない恐怖とは、これほどにカミソリで、痛みを覚えずに出血する、鮭にさえ近いあの感じ。それは、とても。
あま、い
甘美だった。
初めてあの女と会ったとき、あの家で私を買い付けたあの瞬間に、私も、そして今は消えた悪霊も思ったあの感覚。それに、口付けられ彼女の体温に染まった血を口に注がれたときのあの法悦。それは今も変わっていなかったのだ。
私よりも上等に、私という存在の説明をしてくれる。私には私が分からないから、誰か私のことを解明して欲しいという願望。アリスという妖怪は、私に対する人体実験と引き換えにそれを行ってくれるのだ。私という存在を解剖し分解し解析し分析し、私という機能を客観的事実へと帰結してくれる。客観的事実へ説明し尽くされた私は、私による私自身の揺らがぬ認識を創出し、私以外のあらゆる主体にとっても平等な客体となる上、その他主体からの客体認識は私自身の自己認識とぴたりと一致するのだ。私も、私の望む私も、イドの中にいる正体不明の私も、その不一致も消える。
そんなことに惹きつけられる私は、そも、魔に魅入られ易い性質だったのだろうか。それ自体が、妖怪に魅入られた人間の、過ちだったのだろうか。その交換条件が、悪魔との契約に他ならなかったのかもしれない。
だが。
ずっと、ずっとずっとずっと、自分自身の肉体と精神と自己と他者の乖離感、不安感、抑圧、盲目、不明瞭に怯えて生きてきた。私が誰かもそうだが、私がどんな私なのか、誰もがそんな疑問と焦りを嘲り一蹴して答えてはくれなかった。ずっとずっとずっと誰にも理解されぬ落下感に精神をすり減らしながら生きてきた私に、どうしてその甘美な申し出を拒否することが出来ただろう!
まだ、実験は終わらない。私の探求心はまだ続くし、私にはあなたの半身が再び動くように〝修繕〟する義務がある。さあ、次のステージへ、進みましょう
それは、死の宣告そのものだった。
だが、彼女は上等巧く私を釣り上げたのだ。理解者、解決者、隣人、様々の立場をちらつかせ、何より私が余りにもそれを渇望していた。殺されるかも知れないという恐怖に、しかし私は期待を覚えていたのだ。私には、命は要らないというのだ。形さえ不定でいいというのだ。
ああ、何という甘美!ああ、何という誘惑!
私のものだという実感の無い体、いつ何時こうして持ち主に反旗を翻しかねない理解の及ばぬ体に代えて、私が正しく支配できる真に私のものたる体を、遂に手に出来る。
私は、人形になりたかった。小さい頃からその交換を望んでいたじゃないか。でも、その理由は少し違っていた。
だって、いきものって、複雑すぎて、私にはわからないんだもん。自分のことがわからない。こうして左手が動かず右手が動くその差さえ、自分の体だというのにわからないのだ。いっそ人形みたいな単純な肉体で、「ははあ、糸が切れてしまったのだな」と容易にわかって、そのまま明快に生きていきたい。心も精神も思考も、人間のそれは複雑すぎて、わずかな入力値の違いで出力には巨大な差を生じる。面倒くさい。自分のことがわからないなんて、何が高等知能よ。人形の方が、ずっとずっと、素直だわ。
形も応えも持たないまま胸の奥の井戸に潜み続けた不安とは、まさにそれだったのだ。
そして私が人形と入れ替わりたいと願い続けた理由は、お姫様の暮らしではなく、モンスターと戦うスペクタクルでもなく、美しい容姿でも、迎えに来てくれる王子様でも、なかったんだ。
まだ、動かない?
全然。やっぱり、私の体じゃなかったのね。
あなたの中には最初から精神的に寄生していて、自己同一性を得ることを阻害してた。生まれたときに宿命付けられた形質と、命の設計図は、その主たる悪魔を破壊しても、依然形を保ってあなた自身の血液を堰止めてしまっている。
動かす者がいなくなってしまった体。
私の体を私が動かせるようになるには。
私の体を、私の人形として取り戻すには。
何かを捨てないといけないのだろう。
手遅れ、なの?
いいえ。
アリスはきっぱりと否定した。
悪霊、とやらは、死んだのよ。新しく入った羊も、溺れ死んでいることでしょう。それは、血液転換に耐えたあなたの勝利。病は快方に向かっているはずよ。今右半身が動かないのは、その悪霊がいなくなったせい。あなたは胸の井戸の中に棲んでいる、つまり一点、もう少し正確に言うと、精神的な局所にその病原はあると言っていたけれど、それは半身を占めるほどに転移していた。瘀血の排出と、清血の注入によって、あなたの内在憑依は除去された。あとはその部分の支配を、あなたが取り戻すだけ。
アリスは私を寝台に横たえながら、綺麗な笑顔で私の顔を覗き込み、そして脇にあるよくわからない装置を指さして紹介した。金属の球体に碗状の金属の蓋が被せられているが、それは距離をとって接触しないように設置されている。
これはダアトを溶かしてイェソドからアツィルト剥がすことで、肉体的な身体と精神的な身体を分離させ、アルケウスを無効化するための光の発生器よ。
光の発生器、と言っていたけれど、火種も薪も見えない。やっぱり妖怪達のすること、魔術のことは私にはわかりそうになかった。
よくわからない。魔法のことはさっぱりだわ
魔法じゃなくって、魔術よ。そして、科学。私の人形研究は、医術の別アプローチにもなる。……私にはどうでもいいことだけどね。
私の顔を覗き込むアリスの顔は、まるで玩具を手にした子供のそれで、妖怪とはいえ彼女のような美貌の持ち主がするには不釣り合いな、でも妖怪がすると考えれば不思議ではない顔だった。
安心して。お気に入りだもの、安易に使い潰したりしない。治せなくとも、きっと直すわ。私は元々その方が得意だしね。私の仮説が正しく、実験が成功するなら、あなたの体から悪魔は消え、あなたはあなたが望む体を手に入れる。それまで検証も考察も十分行うわ。
ダアト破砕光とか、アルケウス除去光とか、アリスはそう呼んでいた。彼女の仮説では、その光によって血液や、それに規定される種や生物としての〝形〟の予約をリセットできるのだという。
地図は、今知れているものを辿るには価値ある宝でしょう。でも、そこに記されていないものを手にする可能性を、捨て去る甘言でもあるわ。この光によって、血液の中にある命の地図を消し去り、新たな形を描き出すの。
運が良ければ私の体も元に戻る、かもしれない。
私が言うと、アリスは今までとは違って、私に正対して言葉を返してきた。
運が良ければではないわ。私の理論が正しければ、よ。
人形に、してあげる。
そう言って、私を見るその後ろで、人形達が準備している。光を照射するためのセッティングらしい。
この光で、あなたは決定的に既存の体を脱ぎ捨てることになる。あなたがあなたである設計図を破壊して、新しい青写真を刻み込むわ。今夜で、あなたの体はあなたから乖離する。どんどんあなたから剥がれ落ちて、新しい体へ徐々に生まれ変わる。
新しい体は……アリスみたいな体がいい
私は最初にこの家に来たときに見かけて以来、ずっと思っていたことを、口にした。
……初めて名前で呼んでくれたと思ったら、随分ドラマティックね
でも、あんたみたいに奔放で言うこときかなさそうな体はイヤかな
奔放はどっちよ
鳩尾辺りを指でぐりぐり押すようにして笑う。
いいなあ。自分の望む体を、自分の思い通りに動かしてそこに疑いがないなんて、羨ましい。
私と同じには出来ないけれど
うん
約束するわ。
彼女はそう言ってクルリと振り返る。それと入れ替わるように人形達が私を抱えて台へ乗せた。それに多い被さるように、あの球と碗が合わさったアームが延びる。
このサッカーボール大のただの金属の塊が、そんなにすごいものなのだろうか。
いや、今は疑うまい。
アルケウス除去を始めるわ。
金属塊を取り付けたアームの傍らで、アリスは改めて宣言した。他の人形は一体もいなくなっている。私とアリスだけだ。
一瞬で済むわ。少し眩しいかも知れないけど。
ええ
頷いたアリスは、カウントダウンを始めた。
3、2、1
ゼロ、の代わりにアリスは指を鳴らすと、楔によって距離を保たれていた金属の球体とお椀が、ふっと近付き、触れる。
刹那、触れ合った球と碗の接合点から、溢れ出すように青色の光。まるで洪水みたいに私の体に降り注ぎ、アリスも含めた周囲を埋め尽くし、そして消えた。
いつの間にか金属球と碗には再び距離が保たれ静かにアームの先に佇んでいる。
お疲れさま
えっ?これで終わり?
そうよ。今ので、あなたの体の中の、設計図は焼き切れた。あとは造形性をもった血液を流し込む。
アリスはすぐに二つ注射器を取り出して、私の太股の付け根から瀉血を行う。そしてその後処理を人形に任せて、今度は新しい血液を、私の腕に注ぎ込む。
熱い。
燃えるみたいに腕から入り込んでくる血液が、注がれて腕の中、流れ込んで体中、暴れ出している。染み渡る、入り込んで横溢する。あの頭の痛みと同じように、揺れて波打つのは痛みや不快感ではなく、快感と安堵。
心が落ち着き払って、心臓だけが早鐘。脈打つ熱拍と、渦を巻き始める視界。最初に輸血を受けたときの、感じだ。
飲んで、いい?
えっ
いつも淡々と処置を行い後始末を終えて私の様子を見に来るアリスが、どうにも落ち着かなさげに、私の顔を覗き込んできた。
抜いたの
え、ああ、うん
瀉血した後の私の血を言っているのだろう。吸血鬼、と自分で言うのも頷ける。実験台から抜いた、いわば廃棄物とも言うべき血液を、そんなに熱っぽく求めるなんて。
それとも、私の、だから……?
いつかに私の血を飲んで見せた―そして私に口付けた―みたいに、私のそれを口へ運ぶ。滴る赤、私、飲み、喰われる。意識、人形。笑っている、頬が赤く染まって、呼吸が赤くなる。それは、彼女?私?
あり、す
急に気が遠のいて、私は、私の血を舐めて妖艶な姿を見せるアリスの影を朧気に認めながら、まるで井戸のそこに引きずり込まれるみたいに意識をはぎ取られて、目を閉じた。
[sectionid://]SanguisovissymbolicamquandamfacultatemhabetcumsanguineChristi;quiaChristusestagnusDei.
体はずっと、軽く火傷したみたいな感じ。〝地図〟を焼き切るって言っていたから、そういうことかも知れない。まだ動く左腕を覗き込むように見ると、少し赤くなって腫れているような感じだった。
調子はどう?
別に。ただ
微熱が続く体。数日もこのまま何ともなかったが、トイレに行く頻度が上がった。そのたびに下痢で、食べてもいないものが出て行っているような気がする。
お腹を下し気味みたいで
いい傾向ね
意外な答えが返ってきた。
あとは何だか、体の皮が剥けてきた。日焼けした時みたい。でも、剥くとちょっと痛い。日焼けみたいにひらひら剥けるんじゃなくて、べろべろ剥ける感じ。剥けた下に新しい皮が張ってないからだろう。
あなたの体が、入れ替わり始めてる
入れ替わり……?
輸血した血は、上等の仔羊の血よ。今、あなたの体はアルケウスが根絶されているわ。この間みたいに、角が生えるだけじゃない。全身が、劇的に変容する。でも、羊になるわけじゃないわ。仔羊の持つ神性、人間へ向かう血中ダアトが、あなたの体を作り直す。それと
アリスはアームウォーマーをまくり、アムカ痕で赤黒くなった腕を見せる。そこには、一筋、しかし深々と避けて口を開いた、痕。新しい。アリスは、もう鮭をやめたんじゃ……?
アリスの……?
約束すると、言ったでしょ
もう、恐れることはない。不安は一気に、王都の朝に朝霧がすぅっと晴れる、宵闇が名残惜しく消え去るみたいに、消え去った。
私は確信した。
生まれ変われる、と。
[sectionid:一七日目]のどかわい、た
水を持ってくるわ
喉の渇きが強く頻繁になってきた。
剥け始めた皮は留まることを知らず、新しい皮は張らない。
ひりひりを超えて、焼け付くような痛みが、皮が剥けて血が滲む体中から襲ってきている。
アリスは皮膚―古い私の殻―が剥がれ落ちて行く途中でシーツがへばりついてしまうのを抑えるため、私の手足を天井から吊すことにした。まるでマリオネットがそうであるように、私の体は紐で手足を持ち上げられた恰好になる。気力も薄れて全身の痛みが酷い私はそれを全てアリスに委ねた。
あや、つれる?
操るのは私じゃないわ。あなたでしょ
……ちょっと、げんきないな
がんばりなさい。
アリスはそう言って、私の口へ水差しを差し込んだ。流れ込んでくる水は少ししょっぱい。私の体には、薄い塩水の方がいいのだという。だったら、アリスの血が飲みたいなといったら、「血は口から入れても仕方がないのよ?」といいつつ一滴だけ混ぜてくれた。血のおいしさは、何より彼女が知っているから。
モルモットにしては、かわいがりすぎ
そうかもしれないわね。血を分けてしまったからかしら
内血は、呪いよ。そして、外血は、可能性。そう付け足した彼女は、人の血液を身に入れたトランスブラッドだ。そして、私の過去(血、血縁にまつわるもの)が快いものではなかったのを省みて、アリスもそれ以前どういう存在だったのか、少し知りたいと思った。
[sectionid:一一日目]皮膚の崩壊はいよいよ全身に、そして深く広がった。私の体が私のものへ変成するのには、私は一度私を捨てなければならない。捨てた者だけが新しいものを手に入れられるのだと、私は知っていた。
水を飲ませてもらうと、飲んだ側から不純物を運んで出て行ってしまう。それも私の肉体が作り替えられている証拠だった。
私の表面からは、朝霧に濡れた草花がそれをした垂らせるみたいに、次々に血が滴り、出血は止まらなかった。交換輸血の時にそうしたのを踏襲するのなら、体の中にある血液は、減りすぎてはならないはずだ。瀉血したなら、その分輸血が必要になる。羊の血を追加してくれているのかと思ったが、驚いたことに、私の体に注がれているのは、培養胎盤で濾過したアリスの血液だという。
予定は変更よ。羊の血液では、あなたの体を作り替える力に乏しい。いったでしょう、私はあなたより丈夫なの
そ、じゃなくて
密閉した革袋の中で冷やされたそれであったが、たまには依然輸血をもらったときのように、管で直接もらうこともあった。妖怪の血液は、ふつうの動物や人間の血液とは少し効能や影響が違うらしい。
ただ、それが私を直すにせよ死に向かわせるにせよ、私が感じたことはそれとは関係のないことに支配されていた。
そのときの恍惚といったら、なかったのだ。
[sectionid:二三日目]ご飯を食べるための、道を造るわね
アリスは私の喉元を切り裂いて管を通し、そこから定期的に栄養のあるスープを注ぎ込んできた。
そっか、口なんか動かさなくても、単純にご飯をお腹に入れれば、体は、食べたことになるんだ。食事というメカニズムの不明瞭も、アリスは解明し、その単純化を以て私を納得させてくれる。
そうして注がれた水やスープは、すぐに排出された。曰く、血便ではなく緑色の水のような。それは、悪魔が私の体内で過ごす内に出来上がった住処の残滓と、アルケウスをなすアッシャーの破片なのだという。
皮膚の剥離は進んで、水膨れと出血を伴うようになっていた。いよいよ、古い体は形を失おうとしている。あすぺるぎるす、とかいう黴が、私の体に生え始めたという。崩れ剥がれ染み出す私を餌にして成長するのだとか。普段はどこにでもいて、健康な人間には害がないのだけど、私の体はいわば生まれる前の胎児。弱い私の体を食べに来ているらしい。アリスはそれも丁寧に取り払ってくれている。
アスペルギルスは、教会の礼拝式で聖水を振りまく器具から名前を取っているのよ。その名の通り、その場所は清められる。長く侵襲させるわけにはいかないけれどね。
神の子イエスも、裸足で罪を背負い歩き、四肢を釘打たれて槍で貫かれて死に、そして新たな肉体で復活したのだ。苦しみは、復活への近道だ。
手足吊された姿は人形のようであり、同時にイエスの十字架刑の御姿のようでもある。
激痛の中で私は悦びを覚え始めていた。
[sectionid:四一日目]一月ちょっとくらい経っただろうか。私の体は未だに古い体を脱ぎ捨てられずにいた。ぐずぐずと未練がましく、私のものとも言えない体に縋り付こうとしている自分が情けない。
それでも変化は刻一刻進み、私は確かに変成、転生に向かって歩んでいる。
後少しなのね。注いだ血液の形質がアッシャーに発現しようとしている。古い体が朽ちて、アツィルトが血に導かれて新しい体に変わろうとしてるんだわ。
私は変異に必要なエネルギーによって既に口を利く体力を持っていなかった。だが、アリスがくれる経過報告が、私は楽しみで仕方がない。
脱皮は順調に進んでるわ。体組織のアポトーシスも。内部もどんどん変わっている。あなたの元の体は、ほとんどなくなったわ。あと、少しよ。
呼吸が巧くできなくて少し苦しいと訴えたら、呼吸を助ける目的に、変なマスクをくれた。高い圧力がかかっていて、無理矢理に胸の中を広げられている感じ。苦しいけど、無いときよりはましかも知れない。喉に開けられたご飯用のチューブ穴は閉じられて、管は抜かれた。代わりに血液に直接栄養を注ぐのだといって、刺さりっぱなしの注射針をつけられた。
新たな体の再生に向けて変化を繰り返す体中が、燃えるみたいに熱い。けど、アリスは私に甲斐甲斐しく水を飲ませて、すぐに血で染まるガーゼを乾く前に張り替え、忍び寄る黴を払い、世話をしてくれていた。人形がそれをやっていたとしても、アリスの操作には違いないのだ。
目、見えてる?もう応えられないか。一応、塗るわね
瞼も生まれ変わる準備を始めている。まるでつぼみが花を綻ばせようとしている時みたい。瞬きを出来ない眼球に、アリスはラードを塗って乾燥を防いでくれた。辛うじて見える私の視界には、その過程を見ていたいからと用意してもらった鏡、そしてそこに映る、生まれ変わろうとする神秘の存在が見えていた。
あれが、私の姿だなんて。私はついうっとりとしてしまう。
紐で吊り上げられた細い手足は、まるで糸繰り人形。その色合いは鮮やかな薔薇、牡丹、カスミソウと百合。綺麗な花々がしかし植物ではなく生き物のような息づかいを繰り返している。赤い滴は甘露、薫り高い朝露のようだが、活力に満ちていた。生まれ変わる私の体は人形、操作する者のいない今は身じろぎ一つ出来ずにいる。
アレが、もうすぐもっと丈夫で素敵な、私がその機能の果てまで知り尽くした正真正銘の私の手足に、生まれ変わるんだ。
手足を天井や壁に紐で吊られている姿は、まるで、蛹の様だ。私がより望ましい姿へと変容する、アリスの言葉を使うなら「神聖変異」する、そのための蛹。
私は羽化を待つ蝶なのだ。楽しみだった。期待で胸が躍る。
アリスの甘言は、私のような異常者しか対象にしない。理解できない。これが甘言だったのかさえ、他の多くの誰にも分からないだろう。だからこそ、女は今でもこうしてその本性を知られることなく実験台を集められるのだ。そうでなかったら、彼女の下には変身願望を持つ救われない人たちが押し寄せているはずだもの。
私は選ばれ、生まれ変わる権利を得た。神の子の復活の様に、羽化した私には天国が待ち受けていることだろう。
だが、私はまだ私の命だ。消えゆくことに幾許かの苦を感じ、存続を望んでしまう。早くこの変化の過程が終わればいいのに。
それは、言い換えれば自殺願望だったかも知れない。そうとわかっても、私はもう、それを願うばかりだった。
[sectionid:朽ちていった命]ああ……ああ、さっさと終わらないかしら。早く、この体を脱ぎ捨てて、私は私のあるべき姿に。たとい人形であることを他の誰もが侮蔑したとしても構わない。だってそれは、皆が人間という優れているわけでもない器に傲っているだけなのだから。私はもっと素敵な存在になるの。自分の体を正しく把握して、有るべき形と仕組みの全てを知り尽くし、丈に合った優れた体へ。くだらない重りはないし、無駄を省いた機能はより万能へ近づく。老いも憂いも不自由もないからだに。ああ、こんな体、早くおさらばしたい。
肉体と精神を剥離させるというあの光はまさしくアリスが作り出した希望の光だ。神が人を人の形に呪うそれを解呪して人を救う青い光。
マスクの上で鈍く光る冷たいガラスの目で、私を見下ろすアリス。今、胎児の様に生まれ変わりを待つ肉体をその目に映しながらマスクの下で呟いた。
あの堕仙にも協力してもらわないとダメかしら。仙丹の目的がエリクシルのそれと同質であるなら、哲学的水銀の扱いについては知識を共有できそうだし。あと、傍にいる殭屍とかいうアンデッドも気になる。
「治るのではないわ。生まれ変わるのよ」そういったアリスの発言の真意は、アルケウスを破壊した後に生命造形性を発揮させて望みの体を得るという、これだと今知った。彼女の実験は、私の心身を、別物に作り替える、その実験だったのだ。私が私であるための楔を、私が私でいられる設計図を、アリスは完全に破壊し、今、私という命は生まれ変わりつつある。そこに、新しい地図を上書こうというのだろう。
それが、アリスの言う「新しい〝人形〟の在り方」なのだ。自己同一性に呪われた命を解放する、偉大な魔術を、彼女は研究していたのだ。
ああ、この天使は。私の命が生まれ変わりこの実験が成功しようとも、これから先もこの人形師という魔法使いは、血液調整による人為的な神聖変異(メタモルフォーゼ)、すなわち人形化による救済を続けることだろう。
私は息苦しさを押し切り、マスクの下で、声を出した。
あ …… り、が…… と
どうなるにせよ、私が私だと思う私は、ここで途切れるのだろう。私は望んだ私へ生まれ変わるために、一旦意識を手放す。今一度鏡を見ると、美しい蛹は繭を成しているように見える。赤い、美しい血で出来た繭。その中で私は、次の私を待つのだ。
[sectionid:リターンイナニメトネス]もうどれくらいの日が経ったのかわからない。数ヶ月は経っている。
シーツの上に吊られた赤い黒い繭玉となった私。その表面には白く新しい命の芽吹きが広がり始めていた。神聖変異を前に、変化へ向けたエネルギーに満ちて燃えるような熱を発し続ける四肢と体を冷ややかに見、何やら私のベッドの脇に吊るされた液体の詰まった袋を取り去っているアリスから、声が聞こえた。
実験は、失敗したわ。……おやすみなさい。
ああ、そうか。私、やっと人形に―